農業とは、一般的に野菜や穀物、花木などの農作物を収穫する生産活動と位置づけられています。

 確かにその通りですが、私の農業は、実に非生産的な活動といってもよく、実益の乏しい、いわば子供の遊びのような仕業に過ぎません。
 すなわち私の農業は、効率的で量産化を目的とした専門家の生産手段ではなく、逆に収穫できなくても「それで良し」とする、農作業の中で味わう喜びや楽しみを第一義とした、言わば土と戯れる遊びなのです。
 

 では、なぜ土にまみれて遊ぶのか? その遊びの中で何を思い考え暮らすのか? そんな話を時折、心の想うがままに綴っております。 

目  録

 

路傍の石となりて 2020年4月

無声慟哭 2018年8月

歌は流れて 2018年1月

水を飲みて源を思う   2017年1月

うつそみの人にあるわれや 2016年11月

天国からの年賀状 2016年1月

葬送行進曲 2015年10月

鳥の詩(うた) 2015年7月

春の朝~すべて世は事も無し 2015年3月

種子の連鎖と生命の輪廻転生 2014年12月

大蒜の神様 2014年6月

心のどかに謡ひてみれば 2013年11月

声なき心の声を聞く 2013年2月

隣は何をする人ぞ 2012年11月

国歌オリンピックは楽し 2012年8月

われも氣合のよき日なり 2012年6月

春雷すなわち声を発す 2012年4月

どぶろくは悲し 2012年1月

一鍬、一鍬が南無阿弥陀仏なり 2011年12月

ピアノ・コンチェルトとニンジン畑 2011年10月

自立的な賢い消費者の皆さまへのメッセージ 2011年9月

草刈り・草取り・草むしり 2011年7月

花開いて風雨多し 2011年4月


路傍の石となりて 2020年 卯月

 

人生は60から

70代でお迎えのあるときは 留守といえ

80代でお迎えのあるときは まだ早すぎるといえ

90代でお迎えのあるときは そう急がずともよいといえ

100歳にてお迎えのあるときは 時機をみましてこちらからぼつぼつ参じますといえ

 

 この文句は曹洞宗の関 大徹禅師の書『食えなんだら 食うな』の結句です。まことに皮肉っぽくも滑稽さに満ちた、それでいて人間の生死の機微にきちん立ち向かった言葉だと思います。そもそも本書の『食えなんだら 食うな』というタイトルには、「食に満たされ漫然と暮らし生きているようではいけない。食べる物がなければ食べないという覚悟、その気合をもって生きろ」と、一喝しているように思えます。その強い信念と覚悟にこそ、自力本願たる曹洞禅の骨頂を感得します。

 さらに関禅師は、その書の中で生死の問題を取り上げ、「地震ぐらいで驚いてはいけない。たとい地震が来なくても、人はかならず死という局面を迎えなければならない。地震のような天災か、交通事故か、病死か、その死因は、人がかならず迎える死という局面の機縁にしかすぎないのである。だから、人はつねに、数時間後、数秒後の死を考えなければならない。いつでも死ねる用意をしておかねばならない。<中略>いつも喉が渇いた状況におく一それはつねに「死」という局面に対応しておくことである。“大死一番”こそ、禅の極意である。」と説いています。いついかなる時でも死の覚悟を持つこと。例え大勢の人々が死のうと、死の局面に対峙するのは己(おのれ)一人であるということです。

 

 久し振りに本を読みました。近年は目が悪くなった分だけ書物を開くのが面倒になり、自ずと読書を避けていたようです。また畑仕事もあるし、所用も多々ありますので、ゆっくり読書の時間が採れないことも事実です。しかし、新たな肺炎ウィルスの流行で、しばらく静粛な生活を余儀なくされたお蔭もあって、久し振りに春の読書週間と相成りました。

 本は2冊、いずれも明治生まれの曹洞宗の禅坊主が語った人生論や教道を聞き語りで取りまとめられた書で、その教えは私たち凡夫の者とは異なる高潔な精神に満たされています。今春から医者になる息子と一杯やりながら医療の役割と領分について話をしていたら、やがて人の生死や禅仏法のことに至った経緯があって、後日、息子が送ってくれた本でした。

 

 さてもうひとつ、室内での読書とは別に、たまには外の空気を吸ってみよう出掛けたのが寺院や墓苑巡りでした。つまり“墓探し”です。私たち夫婦が死んだ後に埋葬する場所、即ちお墓の適地を探す事前の下見です。実は当家には菩提寺が東京あって、私の父母も2年前に亡くなった弟も葬られております。しかし、ここ極楽寺からは大分、離れていて墓参りも容易ではないし、またお墓の維持管理費や法要に係わる経費が嵩むことから別途、新たなお墓を設けて移転することを考えているのです。

 そんな訳で“墓探し”は昨年秋頃から始め、妻と共に2箇所ほど墓苑巡りをしていたのですが、今年に入り2月には“樹木葬”という、文字通り樹木の下に埋葬する寺院の見物に行きました。かねてから妻が望んでいた“樹木葬”というものの現場を見たいが為でした。そのお寺はクルマで1時間ほど走った千葉県いすみ市に在ります。のんびりとした里山の景色の中、小高い丘の中腹に本堂と厨房などが建ち並び、その裏手の山を切り拓いた処に様々な樹木が植わった墓標が広がっていました。

 一本の樹木の下に遺骨を布袋に入れて埋葬し、やがて幾許かの時を経て土に還る、この樹木葬という方式も、人間が大地から生まれ大地に還るという意味で良いのかも知れません。特に女性に人気のある埋葬法かも知れません。でも、埋葬に係わる費用は1区画当たりの契約金と埋骨料(2人分)を合わせて85万円、また“桜葬”という一本の大山桜の下に共同埋葬する方式では、1人当たり30万円、夫婦合わせて60万円ということで、すぐさま契約もしくは予約をするには二の足を踏みます。


 さらに3月のお彼岸の中日には、自宅から最も近い墓苑へ参り、そこにある永代供養塔を妻に見せました。私が2月に墓苑を訪ねた折、幸い供養塔の裏の扉が開いていて塔内を見る機会がありましたが、簡単に云えば大きな共同の納骨堂のようなものです。段重ねになった円筒状の棚に20余りの骨壺が並んでいて、その中の遺骨も33回忌となった時、塔内の下の土の中に埋めるとのことです。ちなみに供養塔の使用料というのか、安置利用料というのか分かりませんが、一人当たり20万円、夫婦二人だと35万円だそうです。これまで見てきたお墓の永代使用並びに墓石工事料などと比べると、確かに安上がりと云えそうです。いずれにせよ「地獄の沙汰も金しだい」というところでしょうか。帰りの道すがら、妻は「樹木葬は高いけど、永代供養塔は安いから、私はここで良い」などと申しておりました。

 しかし、改めて“墓”というものに思いをいたすと、果たして墓は必要なのかどうか? 思案してしまいます。実際に死んでみて保険金でも入らなければ、お墓ひとつも買えない私たちですが、金銭の有無だけでなく、墓が意味するもの、墓の在りようとその必要性を考えると、今の私にとって自分が埋まる墓があろうとなかろうと、どちらでもよいと思うのです。私のことだけならば、私の亡骸は庭先か、もしくは野辺の草原にでも埋め、その上に石ころの一つでも置いてもらえばよい、とさえ思います。或いは墓などいらないから、その30万円で美酒でも買って飲み干したいと思うのは、罰当たりでしょうか。

 

 折しも、今まさに新型コロナ・ウィルス感染の拡大によって毎日、沢山の人間が死に至っております。今回のウィルスはなかなか厄介そうで、これからオセアニア州や南米・アフリカ諸国など南半球の国々でも感染が広まる恐れも考えると、そう簡単に騒ぎが収まるとは思えません。いずれにしても今年の夏を過ぎた時点でウィルス繁殖がどこまで抑えられたかどうか? さらにはもう一冬越して来年の春の段階で収束の目途がつけられたかどうか? 新たなウィルスとの戦いが、これから本番を迎えることになりそうです。

 いずれにしても、人間の生死に係る大事な局面だからこそ、改め関 大徹禅師の“大死一番” の気概と覚悟が大切だと思います。それ故、亡骸の始末をどうこう考えるよりも、今を生きてあることの絶対を大事にしたいと考えます。いずれ我が身が骨となり、天空に胡散霧消するか、それとも大地へ埋没、あるいは海原に沈降していくか、それは後人に任せるよりほかにありません。

 

無声慟哭 2018年 葉月

けふのうちに

とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ

みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ

(あめゆじゆとてちてけんじや=あめゆきをとってきてください)

うすあかくいつそう陰惨な雲から

みぞれはびちよびちよふつてくる

(あめゆじゆとてちてけんじや)

青い蓴菜(じゆんさい)のもやうのついた

これらふたつのかけた陶椀(たうわん)に

おまへがたべるあめゆきをとらうとして

わたくしはまがつたてつぽうだまのやうに

このくらいみぞれのなかに飛びだした

(あめゆじゆとてちてけんじや)

蒼鉛(さうえん)いろの暗い雲から

みぞれはびちよびちよ沈んでくる

ああとし子

死ぬといふいまごろになつて

わたくしをいつしやうあかるくするために

こんなさつぱりとした雪のひとわんを

おまへはわたくしにたのんだのだ

ありがたうわたくしのけなげないもうとよ

わたくしもまつすぐにすすんでいくから

(あめゆじゆとてちてけんじや)

はげしいはげしい熱やあへぎのあひだから

おまへはわたくしにたのんだのだ

銀河や太陽 気圏などとよばれたせかいの

そらからおちた雪のさいごのひとわんを……(以下、省略)

(宮沢賢治 『春と修羅』第一集 無声慟哭より永訣の朝)

 

 童話や短歌の創作を続けていた宮澤賢治が詩作に転じた頃の大正11年11月、賢治の短歌の筆録などをして兄を支えてきた妹、トシが25歳で亡くなりました。その時に作った詩が、この「永訣の朝」であり、声無くも泣き叫ぶ思いでまとめた詩篇が『春と修羅』第一集の中の「無声慟哭」です。

 臨終の床で「あめゆじゆとてちてけんじや」と言う妹の頼みに、大きく頷き茶碗を持って「まがつたてつぽうだまのやうに」賢治は外へ飛び出しました。最愛の妹の死を前に、身も心も虚しさに打ち震え、賢治は泣き叫ぶ声すら失っていたのでしょう。

 

 私がこの詩を読んだのは20歳前半の頃でしたが、実はそれまで賢治の詩に触れる機会はありませんでした。読んでいたのは『銀河鉄道の夜』などの童話と、かの有名な「雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ…」の詩でしたが、この『春と修羅』の詩集を私に教えてくれたのは、当時、新聞社に勤めていた「ナカ」という後輩だったのです。

 ナカは確か私より2つほど年下と記憶していますが、取材記者として私と同じ職場に配属されてきた後輩です。真面目かつ精力的に仕事をこなす好青年でしたが、文章を書くのは余り得意ではなかったようです。ただ、物事に対する洞察力は優れており、それ故、職場の人間や会社組織、社会の動静について鋭い分析と評価を示す気鋭の若者でした。そんな後輩を私は気に入り時折、仕事が同じ頃に終える際には、 

 「ナカちゃん、一杯やろうか!」

 などと誘いました。するとナカは上着やズボンのあちこちのポケットに手を入れた挙句、金は持ち合わせていないというようなゼスチャーをしながら、

 「じゃあ、ちょっとだけ」 

 などと言って、顔をほころばせます。そんな新聞記者として新米、駆け出しのナカを私は弟分のように思い、機会あるごとに彼を誘い、会社の近くの新橋駅や有楽町駅のガード下の焼き鳥屋で焼酎を煽ったものでした。焼き鳥の煙が漂う酒場では、ナカとはもっぱら文学や芸術のことを語り合いましたが、ある時、宮澤賢治の話となり、彼は私にこう尋ねたのです。

 「永訣の朝という詩は読んだことがありますか?」

 「さあ、賢治の著作で読んだのは童話くらいかな」

 「ぜひ、無声慟哭を読んでください。もう死にそうになる妹に雪を椀に盛ってこようと、曲がった鉄砲玉のように外へ飛び出していくのです」

 「曲がった鉄砲玉のごとくか…」

 「ええ、そうです。悲しみに打ちのめされた賢治の姿そのものです」

 

 そう言ってナカは、ややうつむき加減でコップの中の焼酎を飲み干しました。彼がこの一篇の詩を、なぜ私に強く薦めたのか、その時は分りませんでしたが、後に酒盃を交した折に、ナカが賢治と同じように妹を亡くしていたことを聞きました。ただその頃の私は、兄弟姉妹と永久の決別をする悲しみや、その重圧的な体験を身を以って知るには、まだ若かったかも知れません。ナカとは度々、酒を飲み、遅くなった夜は私の家に寝泊りなどしましたが、いつしか彼は会社を辞め、独り暮らしのアパートからも去ってしまい、以後、再会することはありません。

 

 そして今年6月、私の実弟「モト」が亡くなりました。5年前に癌が発症し、その後、転移した癌とも戦ってきましたが、あえ無くその命を名古屋市の病院のベットの上で絶ったのです。68歳ですので、私と兄弟としての付き合いは物心がついた時期から勘定して60年余りになります。

 でも弟は、二十歳頃に突然、実家を出てしまい、以来、京都や名古屋で勉学や仕事をしていましたので、兄弟とはいえ日々、顔を合わせて暮らしていた訳ではありません。つまり疎遠な兄弟関係であった訳ですが、そもそもモトの友人、知人の多くが私のまた友人、知人でしたので、彼の動静はそれら友達からよく耳にしていたし、私も仕事で出張した折に、よく京都や名古屋の友人宅に世話になった際、弟もやってきて、一緒に酒を飲み交わしたことが度々ありました。

 また、特にモトが癌になってからというもの、妻が心配して頻繁に電話を掛けたりしていて、その度に病気の経過を聞き及んでいたし、たまに兄弟同士、電話で長話して最後は「お互いに元気でやっていこう」などと励まし合ったりしたものです。毎年、正月には電話でエール交換などしていたのですが、今年はどうしたことやら一向に電話がつながらなくて、妻が何度も電話で留守録のメッセージを送った挙句、ようやく本人から電話が懸かってきたのは2月初旬でした。

 とにかくモトは独身生活者なうえ病を抱えているので、連絡がないと何かと気が落ち着きませんが、この時も電話口では大変、元気な様子で一安心していたのです。ならば発病してから5年も経ったので、癌は克服したのではないかと、私達も胸を撫で下ろす思いでした。しかし、5月下旬になってモトが借りている一軒家の家主さんから電話が掛かってきて、弟が転移した癌の治療で再入院をしていると知らされました。つまり、癌が再発したということです。

 この報告を聞いた時、弟は70歳まで生きていくことは難しいのではないかと、そんな思いがしました。そして大家さんの電話から6日経った夜、病院の主治医から突然、電話があり、「4月下旬に入院、抗がん剤治療を施したが副作用が強いうえ、がん細胞はすでにリンパ節にも転移し治療の施しようがない状態で、余命は3~4箇月」との話でした。

 余りにも急なことで、どうしたらよいやら、私は戸惑いつつも、ともあれ見舞いの準備を整え、翌々日に妻と共に名古屋へ赴きました。改め医師から説明を受けた後、モトと筆談を交え借家での書類や荷物のあり様を尋ねるなど、死亡した場合の算段を考えました。とにかく癌の病巣が急速に広がっていることと、それに対処する治療がないこと、ことによれば不測の事態がいつでも起り得るとのことで、もう弟の死を受け容れるよりほかにありませんでした。

 それでもモトは、私たちとの会話の隅々で、来週からはホスピスで長期療養を経て、いずれは復帰できると思っていたようで、余命が尽きることには気付いていないようでした。私達は名古屋に3日間滞在し、一旦、極楽寺の自宅へ戻りましたが、いつ病院から連絡があるかどうか、心落ち着かぬ日々を過ごしました。そして名古屋から戻って3日目の午後3時頃、これから畑仕事を始めようとする矢先に私の携帯電話が鳴り、モトの死亡を知らされたのです。 

  弟は若い頃から独りでよく山登りを楽しんでいたようだ
  弟は若い頃から独りでよく山登りを楽しんでいたようだ

 弟の骨を持ち帰り、私達の父母の位牌が並ぶ自宅の仏壇に据え置き、一先ず落ち着きを取り戻したのは一週間後のことでしょうか。名古屋への再三の滞在と弟の亡骸や遺品の始末などで、私も妻も心身ともに疲れ果てていました。それでもこの間、放置状態になっていた畑仕事もやらねばなりません。

 すでに雑草が延び放題となった畑ですが、まずは出来ることから元気が湧かない身体を少しずつ動かしながら、炎天下の下、まだ収穫を終えていないジャガイモの掘り出しを始めました。ジャガイモはモトが子供の頃から好きだった食物で、母親が三時のおやつにと蒸かしてくれて、ザルに盛られた芋を塩など振ってよく食べたものでした。土の中から次々と掘り出すジャガイモを、四つん這いになって見ているうちに、モトが私に語りかけてきました。

 

「うーむ、こりゃ、旨いわ。子供の頃、兄さんと姉さんと私ら、よく食べたね」

 「お前が特に好きだったようだ。だから兄弟の中では一番、たくさん食べていた」

 「そんなことないよ。おふくろが、兄さんは年上だからと言って、別途、皿に盛ってあげていたよ」

 「それはお前たちの食べるのが速く、俺の食べる分が減ると心配しておふくろがそうしたんだ」

 「またまた…。なんといっても兄さんは惣領だから、何かと特別扱いされていたんだよ」

「それは単なるひがみだ。俺だって、親父やおふくろから事あるごとに、お前は年上なのだから我慢なさい、などと言われていたものだ。長男だからといって優遇された覚えなぞ、滅多にないよ」

 「まあ、そういう事にしておきましょう。しかし、弟というのは所詮、陽の当らない存在だね」

 「それで若い頃、家を出たのか。まるである日、突然、鉄砲玉のように」

 「そんな単純な理由ではないけれど…。以来、家を持たないまま名古屋や長野のあちこちで暮らしてきてしまった」

 「折角の鉄砲玉も、ひょろひょろ曲がっていたようだ」

 「人間、誰しも真っ直ぐ飛んでいけばよいけれど…紆余曲折するのが人生じゃないか。ねえ、そうだろう! 兄さん」

 

 その昔、暑い夏の京都・先斗町のお好み焼き屋で、モトと二人で酒を酌み交わしながら話したことが、ジャガイモを掘った土の下から聞こえるようでした。

  

歌は流れて 2018年 睦月

 

 

今宵出船か お名残惜しや

暗い波間に 雪が散る

船は見えねど 別れの小唄に

沖じゃ千鳥も 泣くぞいな

 

 

1967年夏 信州・浅間山の麓、御代田の鉱泉旅館「八ヶ倉荘」にて(後列右から2人目が沖先生、前列右端が私)

  昭和初期に藤原義江が歌って流行った『出船』と題するこの歌を、人とお別れする際に幾度となく歌ったことか。訪れた冬の海辺に空から雪が舞い降りてくる、そんな景色の中で別れを惜しみ悲しむ思いが込み上げてきます。 私はこの歌を若い頃から好きでしたが、いやそれよりも私の恩師である沖(おき)先生が、よく歌っていました。はしご酒の最後に決まって寄るトリスバーで、すでに午前零時を過ぎた頃、先生は酔った挙句にカウンターに肘を突きながら、呟くように歌っていました。

 今から40年余り前、私は20歳代の頃の話ですが、東京は中央沿線・高円寺の街中の小さな酒場で、ほぼ毎晩のように先生と出会い、文学や人生について語り合いました。そして、いつしか酔っ払ってしまって、話は中途半端なまま切り上げ、好き勝手に歌い出すという始末でした。先生も私も歌が上手ではありませんが、歌それぞれの美しい歌詞を詠みあげるような思い、その時その場の気持で歌ったものでした。

 荒城の月、美しき天然、旅愁、早春賦、からたちの花、砂山、赤蜻蛉などといった日本人の誰もが幼い頃から歌った童謡や唱歌、そして青い山脈、ゴンドラの唄、琵琶湖就航の歌、平城山(ならやま)、波浮の港、城ヶ島の雨、知床旅情、人生の並木道、船頭小唄、宵待草などといった歌謡や歌曲、さらには軍歌や民謡なども歌いました。

 

 そんな私の青春時代の、文学の師であり酒の友であった沖先生が亡くなったのを知ったのは、正月の七草が過ぎた頃でした。私が送った年賀状の宛先のご家族から電話をいただき先生の訃報に接したのです。先生の実のお姉様からの電話でした。お姉様は昔と変わらない若々しい声で「弟には、もうお酒は控えなさい! と言ったのに、ついには胃に穴が空いてしまって…」と、話されました。先生の奥様も眼が悪く入院されていて、同じ病院で入院生活を送っていたとのことですが、昨年の旧盆の頃、亡くなったとのことです。

 確か6~7年ほど前に、東京のお得意様へ野菜を届けに回り歩いた際、先生のお宅にもお寄りして少々の野菜を差し上げたのですが、それ以来、お尋ねする機会もなく、年に一度、年賀状を送るだけの無沙汰で時が流れていました。送った賀状の返事は、ここ数年、途絶えていたのですが、私は「先生も八十歳半ばになって、きっと筆をとるのが億劫になっているに違いない」などと思っていました。

 毎年、11月頃から送られてくる“喪中”の報せで、友人や知人のご家族の方の逝去を知るのですが、沖先生についてはその葉書を受け取ることもなかったので、電話をするなど特段の配慮を怠っていたのです。しかし、奥様まで入院されていたとのことで、残念ながら報せは届かなかったのでしょう。

 

  白玉の あれは何かと 女(ひと)問はば

     露(つゆ)と答へて 消(け)なましものを

 

 沖先生は酒に酔った折、この和歌を詠んでは私に問いかけました。

「どう! 露と言って死んでしまったならば本望でしょう」

 そう言う先生は当時、30歳代後半、私と毎晩のように酒を酌み交わしていた頃、或いは信州・浅間山の麓の名も無き鉱泉旅館を度々、逗留した頃、心の底で死んでしまいたかったほど悲しい思いを抱いていたのかも知れません。そんな沖先生の気持を察してか、先生の問いに応える代わりに私は歌い出しました。先生も好きな、二葉あき子が歌った戦後の歌謡曲「水色のワルツ」です。

 

   月影の細路(ほそみち)を 歩きながら

   水色のハンカチに 包んだ囁きが

   いつのまにか 夜露に濡れて

   心の窓をとじて 忍び泣くのよ

 

 こうして私の怠慢、無沙汰が故に、これまでも若い頃にお世話になった先輩や友人達が亡くなり、お会いする機会を失った経験が多々あります。訃報に接して、無念の思いが駆け巡ります。悲しみというよりも何とも言えぬ寂しさ、侘しさを感じます。いずれは私自身の身に及んでくることではありますが、この世に生き、知り合い、共に酒を酌み交わし、そして別れていく、この輪廻転生を、どのように受け止めればよいか、私には未だに答えが出ていません。

 

水を飲みて源を思う   2017年 睦月

森のあちこちから沸き出る山水が流れとなり、小川となり、やがて源川となって九十九里浜の海へと注ぐ
森のあちこちから沸き出る山水が流れとなり、小川となり、やがて源川となって九十九里浜の海へと注ぐ

 

 

又ひとつ年によるとも

 

玉手箱あけてうれしき

 

今朝のはつ春

              狂歌 もとの木網 作

 

 

 

  風も無く、どこまでも青い空から降り注ぐお日様に誘われて、穏やかな元旦の午後に、私は年賀状を書く手を休め散歩へ出掛けることにし、我が家の近くを流れる源川(みなもとがわ)という小さな小川の橋を渡って、処々、居並ぶ農家を巡る細い曲がりくねった里山の小道をそぞろ歩きながら、しばらく来ることがなかった源川の源流が湧き出る森の中へと入っていきました。

 ここ極楽寺へ東京から引っ越してきた12年前の頃は、散歩というとよくこの森の中へ足を踏み入れ、その森のあちこちから沸き出でる清らかな水の流れと、無造作に倒れ付したままの雑木の姿や、また林のあちこちで鳴く鳥たちの声を聞いていたのですが、久し振りに来た今日も森の周辺は静寂にして、唯一、小川の土手に居並ぶ枯れ草が、微かな風にさやいでました。源川の源流が流れ出るこの森が、特段の美しさや景色の明媚さを伴っている訳ではありませんが、極楽寺に移り住んだ当時、もっとも親しみを感じた景色で、私は自らの「散歩道」、或いは「源川の森」と称していました。

 それにしても、私がこの森の中に入るのは本当に久し振りで、もう5年以上は来なかった、と思います。何故、そんなにご無沙汰だったのだろう、と改め思います。やはり農業に勤しむ日々が続いたので、ゆっくり散歩をする余裕がなかったのかも知れません。畑仕事に追われるうちに時は流れ、12年という歳月を経てしまったのです。なんという時間の流れの速さでしょう。

 

 私はゆっくりと森の道を歩きながら、森のあちこちから沸き出で小川となって流れる水を眺めながら、この間、自分が暮らしてきたこと、そのうえで好かったこと、悪かったこと、いろいろな人との出会いや別れなどについて、想いを巡らせました。そして特に、この地へ来てから大きく変化した自分自身の健康と体力の衰退、それが如実に現れ始めたことに思いが至りました。すなわち“老化現象”です。

 極楽寺に移り住んだ当初は結構、元気に朝のジョギングを楽しんだり、銚子港や養老渓谷まで約140kmのサイクリングに出掛けたり、プールでも2~3㎞ほどは苦もなく泳いでいて、老化の「ろ」の字も感じることがなかったのです。しかし、60歳を過ぎたあたりから 身体全体に皮膚炎が生じ、これが治るまでに3年の月日を要しました。原因はまったく不明で、あえて想像するに「生活の水」の変化としか言いようがありません。

 さらに連続的に発症したのが、農作業によってもたらされた腰痛です。農業を始めたのは極楽寺へ引越しをした翌年2005年春からですが、当初は一区画15坪の小さな市民農園でしたが、以後、年ごとに畑を広げ一反(300坪)ほどの畑を相手にする一方、すべて手作業による米作りを始めるようになると、さすがに腰骨が折れ、あちこちの整形外科や整体院・整骨院へ通うようになりました。それでもスイミングを続けるうちに腰の痛みは和らいで、どうにかやり過ごしてきたのです。

 しかし、65歳を過ぎた春3月、ジャガイモの種の植付け作業を終えた後に痛み出した腰は、ついに5年近くを経た今日なおも癒えることがありません。とはいえ冬場以外、農作業は続けていますので、野菜の種蒔きや苗の植付けといった腰を極端に折り曲げたり、屈んで行う作業は妻のノーリンに頼んだり、畑の土の耕耘作業は4年前に購入した中古のトラクターの腕力で助けられ、何とかして農業を今日まで続けることができたのです。また、自助努力として腰痛体操、ウォーキング、スイミング、体幹トレーニングなどを随時、行いながら、腰の痛みの本尊に気遣いつつ日々を送ってきています。

 我ながら、なんという受身の生き方か、と思います。常に場当たりの騙しのやり方で、積極的に克服するという根本的な姿勢に欠けています。でも、これが老化した人間の所作なのかも知れません。実際、この2年間ほどは高血圧をはじめ頭痛や耳鳴り、白内障による視力低下、歯痛、汗疹(あせも)などに悩まされており、その都度、医者通いを強いられる生活を続けながら、いつのまにか70歳の大台を超え、さらにこれからも数々の病魔と戦っていかねばならないのが現状です。

 

 実は、久し振りに歩いた「源川の森」の元旦散歩の時も、私は年末からの喉風邪に犯されていました。結局、今回の風邪は正月休みを終え病院が診療を開始した以降の七草、十日恵比寿、鏡開きが済んだ後まで癒えることなく、ほぼ半月ほど薬漬けの療養的な生活を余儀なくされました。正月を病の渦中で暮らしたことは大人になって過去に二度ほどあったと記憶していますが、過去の原因は働き過ぎや運動のやり過ぎという積極性が伴うものでしたが、今回は年末に都会へ出掛け夜遅く帰宅した間にウィルス感染したという、いわば受動的要因がもたらすものでした。情けありませんが老齢化は、わずかな原因で身に応え、かつ体力の回復力が遅く、生活全体が受身に回ってしまう結果を招いてしまうようです。

 そんな年末年始を過ごす中、今年の年賀状には元旦の午後に歩いた「源川の森」の写真を紹介し“飲水思源”と書きました。「水を飲みて源を思う」とは、天地人の恩や物事の根本を忘れてはならない例えのことですが、年頭に際し病魔に負けることなく今後とも農業に勤しむために、私が東京から極楽寺へ移り住んだ12年前の初心を思い起こす気持に駆られたからです。

 そして新年になって初薬師の8日目、身体が少しは楽になったので農園へ出掛けることにしました。特段の作業があった訳ではありませんが、やはり畑の姿を見ないと、心が落ち着きません。その久し振りの畑も、畑を囲む森も静まり返り、いつもと変わらぬ姿で私を迎えてくれました。畑の大半は耕耘して土ばかりですが、昨秋に植えた大蒜(ニンニク)をはじめ玉葱(タマネギ)もラッキョウも蚕豆(ソラマメ)も皆、寒さに震えながら元気に育っているようでした。

 

また今年も、やるか!

 

 そう私は、畑に向かって言いました。 

 

うつそみの人にあるわれや 2016年 霜月

    大神神社から遠望する二上山(右端・二つの峰)
    大神神社から遠望する二上山(右端・二つの峰)

 

 

 われは湖(うみ)の子 さすらいの

旅にしあれば しみじみと

昇る狭霧(さぎり)や さざなみの

志賀の都よ いざさらば

 

 

 

 

「われは湖の子さすらいの…」との歌詞で始まるこの歌は「三高琵琶湖周航の歌」と云い、今の京都大学の前身、第三高等学校の寮歌・学生歌として歌われました。大正時代に三高の生徒だった小口太郎が琵琶湖を周航した経験を踏まえ、湖畔の地名や風景を織り込んで歌詞を作り、同じく同門の吉田千秋がイギリス民謡『ひつじぐさ』のメロディを基に作曲したと伝えられています。
 大学の寮歌にもかかわらず、戦後はポピュラー音楽として多くの歌手が歌っており、私が古代の歴史文学の研究のため京都へと足しげく通っていた20歳前半の時期には、歌手の加藤登紀子が歌ってレコードが大ヒットとなりました。それで京都の界隈では、この就航歌がよく歌われもしましたし、私もゆったりとした曲の流れが快く、鴨川のほとりなど京都の町を歩きながら口ずさんだものです。

 

 もう、その頃から45年も経ってしまったのですが、その当時の私は東京の新聞社を辞め、今で言うフリーターのような日雇いの仕事に就きながら、文芸の創作・研究活動を続けていました。そしてアルバイト料がある程度、貯まると、まるで風来坊のように京都へ赴き、友人宅に居候しながら奈良や大和路の神社仏閣や仏像を訪ね歩いたのでした。
 その居候の先は、京都駅から南の東福寺の近く、鳥羽街道に面する京町屋「痴呆堂」と称する友人宅でした。その家の主人、三上は転勤中の両親の留守を預かりながら下宿を営みつつ大学に通い、社会思想や文学を学んでいました。同じ文学の友ということで三上は私を快く受け容れ、長い時は3箇月間も滞在、昼間は古寺巡礼をもっぱらとし、夜は「痴呆堂」に群れる多くの京都の友人達と高瀬川が流れる木屋町界隈で酒を酌み交わしました。
 それら友人達とは「痴呆堂」に集まってきては酒を飲み、議論を交わし、時には喧騒、高唱し、つまり騒ぎまくる文字通り痴呆、阿呆の輩で、いずれも20歳台前半の絵画や彫刻、工芸の道を志す若き芸術家たちでした。
 なかでも私が最もよく付き合ったのが三上邸の下宿人で彫刻家の塚原や大学で文学を学ぶ高橋の2人、それに京町屋大工であり伝統工芸作家の角田、文芸評論家の兵頭、私と同じ東京からやってくる画家の村田などで、まさしく半世紀に及ぶ付き合いをしてきた親友たちです。しかしながら、これら京都で酒を酌み交わした友人のうち、すでに三上は16年前、塚原は10年前、そして村田は昨年、私たち「痴呆堂」の群れの輪から外れて逝きました。

 

 京都の話をつらつら書き始めたら、つい昔話が長くなってしまいましたが、そんな訳で11月の初旬、「痴呆堂」の生き残りの有志が琵琶湖のホテルに集まり会食することになりました。集まったのは三上夫人のケイコさん、京都の角田、秋田の高橋、名古屋の兵頭夫妻、それに私たちフーミンとノーリンの夫婦です。

 農作業の手を休め、久し振りに極楽寺の田舎から西へと旅立ちました。夫婦二人で旅費が嵩みますが、幸いにも自分達のために積み立ててきた葬祭共済金が満期となったので、それを降ろし、まずは京都見物、その翌日に琵琶湖での会食、それ以降は兵頭の田舎暮らしの伊賀の別邸で、これまた3日間も居候したうえ、奈良の山寺や三重の温泉の湯に浸かりました。
 奈良では女人高野・室生寺を訪れ、数十年振りに釈迦如来や十一面観世音菩薩といった平安時代初期の貞観仏に再会しました。また、「痴呆堂」に居候した頃に草鞋を履いて歩いた「山之辺の道」の終着点である大神(おおみわ)神社を参詣し、その裏手の丘から天の香具山など大和三山や、西日を背に映し出す葛城山系の二上山の姿を仰ぎ見ることができました。

 

 うつそみの人にある われや
 明日よりは 二上山を
 弟世(いろせ)と わが見ん
       (万葉集 巻二)

 

 この歌は大伯(おおく)皇女(ひめみこ)が、数ある天武天皇の皇子たちの中で唯一、母が同じ血筋の実弟、大津(おおつ)皇子(みこ)が葬られた二上山を見て哀しみ歌ったものです。生き残った者が死者への想いをどのような形で現わすのか? それは歌の中に気持を込めるばかりでなく、より具体的に二上山という現世(うつそみ)の姿そのものに死者を二重投影することによって、忘れがたい肉親への思いとその悲しみの深さを表わしたものと察せられます。
 弘文元年(672年)の“壬申の乱”が終息した後の皇位継承を巡る争いで、時の政権から謀反人として絞首の刑に処せられ若干24歳にして散った悲劇の皇子、大津皇子の死をめぐる逸話は古代日本史の中で語り草となっています。その悲劇の物語を題材にして、私は『白鳳の微笑』と題する歴史文学評論を執筆しました。私が20代後半に東京・中野で詩や小説を書く仲間と創った文芸同人誌『箋』に掲載した原稿用紙で200枚余りの作品です。
 実は、この文章を執筆した前年に父が亡くなりました。その時、人が死ぬということ、また死した人間に対峙する人の心の所在について、大津皇子のことを取り上げてみたかったからです。私が27歳の時でした。放浪生活を送った20歳代の総決算として、死んだ父に捧げる思いで書き記したのです。その『白鳳の微笑』の冒頭文(プロローグ)の部分を紹介させていただき、農業とはまったく無縁な日々を過ごした11月の旅の話を終えます。 

 

「大津皇子の実姉、大伯皇女が詠ったこの歌を、僕は二上山を見るまで意に介することがなかった。それは大津皇子の短命な生涯とその時代、また大伯との姉弟の関係を充分、考慮に入れなかったからかも知れない。しかし、ただそれだけではないことが分かったのは、やはり二上山を見てからのことである。つまり二上山を実際に見て、この歌が持つ気分、その激越な調べが初めて僕の心に響き渡った。
 3年ほど前のことになる。わが国最古の道と称される“山之辺の道”を天理から桜井に向かって歩いたのだが、三輪山に差し掛かる車谷(くるまだに)という集落から二上山を仰ぎ見た。<中略>僕は半日余り歩き続けてきた疲れを癒そうと三輪山に通じる山道に腰を降ろし、奈良盆地を隔てちょうど反対側、葛城山系の北端の二つの峰の二上山と真正面に対したのである。
 標高525メートルの雄岳と472.2メートルの雌岳。深い緑に覆われた二上山は陽が傾くにつれ、いっそう色濃く二つの峰を西の空に浮かび上がらせている。その容姿が、なぜか僕の胸に迫った。優しくおほらかだった。そして荘重だった、平野を隔て遠く離れているとはいえ、いや遠く離れているからこそ、思いは翔り、声を発して呼びかけたい衝動に駆られた。その時である。大伯の絶唱が、その調子の高い響きが聞こえてきたのは。雄岳の山頂に大津が眠る墓があるという」

 

 さて話を戻し、琵琶湖で一堂に会し食卓を囲む、言わば京都時代の同窓会を終え、その後は兵頭夫妻とも別れを告げ、妻と共に5泊6日の旅から極楽寺へ戻りました。そしてその翌日、わが農園へ赴き、畑の草や野菜たちと会いました。800株ほどの大蒜(ニンニク)の芽はほぼ出揃い、蚕豆(ソラマメ)も若芽を吹き出し、また人参(ニンジン)や白菜、キャベツといった冬野菜たちも順調に育っているようでした。私は畑にしゃがみ込み、それら野菜の姿をしばらく眺めながら、一方で、遠くにいる友のことに思いを馳せました。
 私はまだ、「うつそみの人にあるわれや」なのでしょう。明日よりは、再び農作業を開始します。

  

天国からの年賀状 2016年 睦月

 明けましてお目出とう御座います。

いつも当農園の野菜をお買い上げ下さり有り難く、新年に際しまして改め御礼を申し上げます。しかしながら、私ことフーミンは旧年○月○日、長年の多酒暴飲に加え、トライアスロンという少々、過酷な運動にも携わり、更にまた農作業によってもたらされた腰痛の激しき痛みに耐え兼ね、遂にして慢性的アルコール症候群&脊髄疲労炎等々により、彼の世に旅立つことに相成りました。

 

 この為、今後、皆様には私の農作物をお届けすることが叶わず誠に慙愧の念に堪えませぬが、どうぞこの間の事情をご了解、賜りたく、遅れ馳せながらお知らせ申し上げる次第です。今更ながら生前に賜りました皆々様のご厚情とご恩に深く感謝いたし、新年のご挨拶とお別れのお言葉を申し上げ、心安らかに黄泉の国へと旅立って参る所存です。 合掌             ○○年 元旦

                                        俗名 ふーみん農園 園主ことフーミン

 

 とまあ、新年を迎え、こんな年賀状を書いてみました。少しばかり長生きした所為でしょうか、毎年、正月を迎える前に決って送り届けられる「喪中につき新年のご挨拶を失礼させて戴きます」との葉書に、いささか飽きたらなくなりまして、もしも私が他界したならば喪中の葉書など一切、出さずに、かような年賀状を事前に認めておき、翌年の正月に送るよう遺族に頼んでおきたいと思ったからです。
 その方が明るく朗らかではないですか! ならば死んだ本人である私も、この世でお世話になった多くの方々と最後のご挨拶を済ませ、安楽の境地で天上極楽へと旅立つことが出来そうだと思うからです。本来ならば生きているうちに全国行脚をいたし、親しかった友人、知人とお別れの盃を酌み交わし、お世話になった御礼を丁重に申し述べたいのは山々ですが、そんなことをしているうちに旅に疲れ病に果てるのは目に見えておりますので、結局、葉書一葉で済ますより他に手は無さそうだと悟ったのです。
 このような思いに至ったのは、実は私が生きているうちに“生前葬”を執り行えば全国を巡り歩く面倒もないし、居ながらにして香典も集まり、それ故、老後の生活の足しになるのではないか、などと大変、虫の良いことを考えたのです。こんな私の自分勝手を冗談半分に友人達に話してみましたら、


「では、通夜でたっぷり酒を飲まして貰うけど、まだ死んではいないのだから香典は出さないぞ」

 

などと言われました。それでは通夜の酒肴の費用で、私の身が持ちません。或いは後輩は、


「そんな情け無いことは言わず、どうぞ百歳まで長生きして下さい」


と申します。となると、もしかしたら後輩の方が私よりも先に旅立ってしまうことも考えられ、従って香典を頂くことが出来ないかも知れません。
 そのように、あれこれ思い巡らすと、どうも自分に都合の良い話は実現しそうもないことが判ったのです。このため生前葬’は諦め、死亡通知の年賀状を作製、送付しようとの考えに至りました。しかし、この年賀状の案は、まだ誰にも話しておりません。この日誌で初めて公表するものです。もしも賛同される方が多々あれば、今年末までに年賀状の原案を認めた上、さしずめ妻のノーリンに託しておきましょう。

  さて、こんな馬鹿げた妄想を廻らしつつ、今年で70歳となる年が明けました。最早、目出度い歳ではありませんが、年の始めの嬉しさに想いは勝手気侭に歩みます。
 それにしても、ついこの間まで私は紅顔の洟垂れ小僧だったし、いささか歳を重ねて身形は一人前の男になったように見えますが、実態は依然として無知蒙昧の域から脱せない未熟者であることに違いありません。ですから後輩の言うように百歳まであと30年ほど生きて修行を積まないと、本物の大人に成熟することが出来ないかも知れません。
 本当のことを言って百歳は無理としても、私はあと90歳の“卒寿”までは生き続けたいと思っているのです。と申しますのも、まだ私の人生は道半ば、やることなすことの多くが不完全、中途半端、未完成で、まだまだ残された課題、取り組むべき作業が数多く残っているからです。その為には少なくとも10年以上、欲を言えば20年程かけて取り組んでいきたいと願っています。
 農業も出来ればあと10年ほど、少なくともあと5年くらいは続けていきたいと思います。しかし、農作業に端を発した腰痛は今尚、完治せず、自身の健康に何時まで自信が持てるかどうか分かりませんし、更に今後、想起される自然界の天変地異なども考慮すると、10年一昔先を保証する根拠は、どうも見当たりません。
 ただ言えることは、今年も美味しい野菜を精一杯、作っていこう、という気持だけです。そして今現在、畑の中で北風に晒されながらも生きている大蒜や玉葱、エシャレット、枝豆などの野菜たちをしっかり育てていこう、という思いです。

 そんな思いを抱きつつ、今日の日記の最後に、酒を好んだ唐の詩人、杜甫の詩(曲江其の二)の一節を掲げ、古希を迎えた私を、これまた自分勝手に祝うことといたします。

 

朝廷より回(かえ)れば 日々に春衣を典じ(質入れ)

毎日のように江頭(河の辺)で 酔いを尽して帰る

酒債(酒代の借り)は尋常(いつも) 行処(あちこち)に有るが

人生 七十は古来より稀(まれ)なり  

 

葬送行進曲 2015年 神無月

高校卒業記念アルバムより(左がムラタ、右が筆者)
高校卒業記念アルバムより(左がムラタ、右が筆者)

 

友と語らん 鈴懸の径
通い慣れたる 学び舎の街
やさしの小鈴 葉陰になれば
夢はかえるよ 鈴懸の径

 『鈴懸の径=すずかけのみち』(佐伯孝夫作詞、灰田晴彦作曲)

 

 この歌は、第2次世界大戦中の昭和17年(1942年)の創られた歌謡曲で、作曲家の弟である歌手の灰田勝彦が唱っています。戦時中というのに、そんな殺伐とした様子が微塵も感じられない、優しく夢のような雰囲気を醸し出している歌です。他に灰田勝彦は「煌く星座」とか「新雪」といった歌を戦時中、唱っていますが、今でもたまに聴いたりする私の好きな歌です。

 実は、この歌を口ずさむ時、私は高校生時代の友であり、今日まで親友の一人として半世紀に及び付き合ってきたムラタ君のことを思い浮かべます。学校へは電車で通い、駅から学校まで約1Km程の道程を生徒達は皆、最短距離を歩いて行くですが、ムラタも私も敢えて遠回りして静かな道を選んで通っていました。それで二人とも待ち合わせたかのように毎日、一緒の電車で下りて、銀杏並木が並ぶ道を歩きながら、音楽や絵画など芸術作品や文学の話をしていました。

  同じ高校生同士ですから、普通は学業の話をするのでしょうが、私達はもっぱらベートーヴェンやワグナーなどの音楽、ドラクロアやクールベなどの絵画、ドストエフスキーや芥川龍之介などの文学、リルケや萩原朔太郎などの詩歌などのことばかりを語り合っていました。だからといって学業をおろそかにしていた訳ではなく、ムラタは常にクラスで一番、二番を競い、学年でも五本の指に入る優等生で、私はいつも彼の後塵を拝していました。

 しかも、ムラタはモノの見方という点で大変、鋭い視点を持っていて、その洞察力は大人をも喝破するほどで、時折、私の曖昧な考えを問い質すこともありました。よく論争をしたり意見が対立することもありましたが、決して仲違いするようなことはなく、周囲の学友たちも私達二人の仲良しを羨ましがっているようでした。そして、いつものように学校へ通う道を二人で歩きながら、

 

 「今日の試験は早く終わるから、午後から銀座へ行こう」

 

「並木座へか! 今、何をやっている」

 

「黒澤 明の特集月間で、確か今日は〝わが青春に悔いなし〟と〝生きる〟だ。ほら! これを見て」

 

 「生きるとは、随分、差し迫ったタイトルだね」

 

 「主人公である役所の課長が癌で死期が迫っていることを知り、市民の為に立ち上がるのだが、わが子にも役所の人間達にも理解されないまま死んでいくと、これには書いてある」

 

 そう言うと、彼はカバンの中から銀座2丁目の映画館「並木座」のパンフレットを私の目の前に差し出しました。A5版ほどの二枚折りの表紙には映画のワンショットがモノクロ写真で掲載され、ページを開いてみると1週間ごとに入れ換わる映画の題名と寸評が載せられ、裏表紙には並木座の館長の映画批評や作品論が細かな文字で書き込まれています。ムラタは先月、密かに並木座で映画を観て、そのパンフレットを持ち帰っていたようです。彼は無類の映画好きで、私を誘っては池袋の人世座とか新宿の日活名画座とか東京中の名画館を巡り歩きました。

 それでフランスやドイツやイタリアなど外国映画はもちろん、日本映画では溝口健二をはじめ黒澤 明、木下恵介、小津安次郎、今井 正、市川 昆、小林正樹、内田吐夢など戦後の映画作家・監督の作品群をことごとく観賞しました。また、土曜の夜には翌朝まで5本立て一挙公開の「ジャン・ギャバン傑作選」や「フランソア・トリフォー作品集」、「人間の条件」や「宮本武蔵」などといった映画を徹夜で観続けたものです。この映画鑑賞の二人の旅は高校生時代から始まったのですが、私は20歳頃に打ち止めしたものの、ムラタはいつまでも映画ファンであり続け、酒場で会うたびにその日に観てきた映画の内容を説明したり、批評をしたりしていました。

 映画は所詮、二人ともデュレッタントにしか過ぎませんが、それぞれ取り組むべきこと、目指すものは、ムラタは画家であり、私は作家でした。その目的に向かって二人は高校生の時代から、それぞれの道を歩み始めていたのです。そして貧しい生活を伴としながらムラタは絵画や造形で、私は文筆で生計を立て、50有余年の歳月を刻んできました。

 

  そのムラタが癌を患い、2週間前に亡くなりました。手術を施してから6年を経過していたのですが、思いも掛けず再発したのです。葬儀は故人の遺旨を踏まえ密葬で行うとのことで参列も叶わず、結局、私は農作業を中断し、出棺する日時に併せて東京へ赴きました。その途中、電車に揺られて移り去る景色を眺めていると、オーケストラの響きが聞こえてきました。そう! ムラタと二人でよく聴いたベートーヴェンの交響曲第3番変ホ長調「英雄」の第2楽章です。「葬送行進曲」とも言われているこの楽章が、彼の訃報を聞いてから今日まで私の胸の中で鳴り響いていたのです。

 思い返せば若い頃、私達はトスカニーニやフルトベングラーといった音楽指揮者の演奏に聴き惚れていました。その中で、このベートーヴェンの“エロイカ”と称するシンフォニーは二人ともお気に入りの曲で、

 

 「弦楽器が奏でる重厚な旋律は、なんという美しい調べだろう。ゲルマンの森の奥底から響き渡ってくるようだ」

 

「神に捧げるレクイエムというよりも、人間の生命の尊厳と、その死の荘厳に対して捧げる悲痛な叫びが聞こえる」

 

 安物のウヰスキーを汲み交わしながら、油絵具の臭いが漂うムラタのアパートの部屋で、音楽にうつつを抜かしていたのです。

 

  しかし、その時代は今や遠く過ぎ去り、そしてムラタは闘病生活を終えて先立ちました。出棺を済ませ遺体がクルマに乗せられた後、思わず涙が溢れ出て、「バカモノ!」と、叫びそうになり、私はハンカチで口を塞ぎました。また一人、友を失った私は途中、街の酒場に寄り、貧乏暮らしの時代に飲んだ焼酎を煽って家路に着きました。

  友との別れで丸一日を費やし、その後2日間も雨が降り続いたため、農作業が滞ってしまいましたが、今日はようやく晴れて遅れ馳せながら「菜花」の種蒔きをしました。野菜は種を播けば芽が出て、やがて葉や茎が伸び、花が咲きます。こうして輪廻転生を繰り返し、この地球上に生き残っていきます。人間も同じく生まれ育ち、そして死期を迎えるのですが、矢張り野菜と同じく生命の種を残しながら、生存が図られていくのでしょう。

 すなわち、私達は天然自然界の “条理”に基づいて生きており、人間は時間と重力に抗し兼ねるが如く、生から死へ輪廻転生の定めに逆らうことは出来ないようです。ムラタとも会い別れ、そして私も遅かれ早かれ多くの友人、知人と別れる時を迎えることでしょう。人間の悲しみや喜びを突き抜けるには、その条理に委ねるより他にないのかも知れません。

 3日振りに畑に出て、気持も少しは晴れ晴れとします。雨が上がった所為か、空の青も森の緑の深さも鮮やかだし、浮かぶ雲は陽の光に白く輝いて眩しいくらいです。週末は毎年、化粧品会社のイベントに出店、販売する為、これから農作物の収穫と整理作業を急がねばなりません。また、その翌週には東京からスポーツ仲間が家族連れで大勢やってきて薩摩芋の掘り出しを手伝ってもらい、同時に山形流「芋煮」の鍋パーティを開く予定です。農作業で身体を動かしながら、ムラタのことや、また今年の春から夏に掛けて亡くなった囲碁や酒飲み友達のことを偲びつつ……、もう少し私は生きていこう、と思っています。

 

鳥の詩(うた) 2015年 文月

母よ
淡くかなしきもののふるなり
紫陽花いろのもののふるなり
はてしなき並樹のかげを
そうそうと風のふくなり

時はたそがれ
母よ私の乳母車を押せ
泣きぬれる夕陽にむかつて
                                 りんりんと私の乳母車を押せ
                                                             (以下略)

 

 これは昭和初期の詩人、三好達治の処女詩集『測量船』に収められた「乳母車」と題する詩です。「淡くかなしきもの」、そのような「もののふるなり」と口語体と文語体とを組み合せ、作者の心象風景を綴っています。こうした日本の伝統的な抒情観を携えて登場した現代詩人、三好の詩を私は若い頃から好んで読んでいました。その「淡くかなしき紫陽花」の花も色薄れ、季節は夏に向かって動き始めようとしている今日この頃です。

 実はこの間、私は病の渦中におりました。3月末頃から血圧が急上昇し、睡眠が上手くとれず、夜中に何度も目が覚め、その度に悪夢に襲われるなどで、頭痛や目眩、首や肩の凝りなどが2箇月余りに亘って続いておりました。桜が咲いて華やぐ時も、新緑が眩しく輝く時も、気分はいつも重々しく、自分の身体を自分で調整できない、薬に頼る生活を続けてきたのです。
 それでも、なんとか畑仕事に携わり予定通りに茄子や胡瓜、生姜や薩摩芋などの種蒔きや苗の植え付け、大蒜や馬鈴薯などの収穫作業を終えたのは幸いでした。我が身の命に対する不安に、いささかの養生と真面目に医者通いをしたお陰かもしれません。今なお薬に頼る日々は続いておりますが、ここにきて体調はほぼ回復し、こうしてブログを認めることが出来るようになりました。
 それにしても、私も70年近く生きてきた人生の疲れが出てきたかのようで、 どうやら“老化”の領域に踏み込んだものと思ってもいます。そして生命の危機もある日ある時、訪れるであろうことも覚悟しておかねばならないのでしょう。とは言え、明日を夢見る生活を、まだ捨てる訳にはいきません。

 梅雨に入り重苦しい黒雲が立ち籠める日々が続いた後、今日は久し振りに空が青く澄み渡り、畑一面に爽やかな風が吹きそよぐ五月晴れの日となりました。雨の日は特に頭が締め付けられ鈍痛を覚えるのですが、今日はその様子もなく、良き天候に気持もすっきり洗われる思いでした。

 

 農園は昨日までの雨で畑の土も草も濡れていましたが、この時節、毎年、栽培している南瓜(すくなカボチャ)は、その太い蔓を一面伸ばし青々とした葉を一杯に広げています。安納や紅はるかなど薩摩芋の葉も清々と繁り、生姜も遅まきながら芽を吹き出してきました。

 そんな畑に佇んでいると、鳥たちの声も快く私の胸に響き渡ってきます。いつも決って畑の南側の竹薮で鳴いているのは鶯で、ほとんど定位置で元気良く、同じ調子で鳴き声を発しております。そして東側の森の中で鳴いている不如帰(ホトトギス)は、最初の頃は「トッキョ、キョカキョク、キョカキョクチョウ=特許許可局許可局長」と鳴き出すのですが、次第に声に張りが出てきて「ゲンキンダ、ゲンキンダ=現金だ」、そのうち早鳴きとなって「ケッキンシャ、ケッキンシャ=欠勤者」と鳴き叫んでいるようです。そのように聞こえるのは私だけかも知れませんが…。

 いろいろ鳥たちの鳴き声を聞きながら畑の小屋の前で作業していると、ふっと! 収穫を終え土が露わになった馬鈴薯(ジャガイモ)畑の中央に、蹲って身動きしない山鳩が一羽、目に留まりました。でも、山鳩が畑地に降りてきて、土中の虫などを食しているのは珍しくはありませんので、私はそのまま気にすることなく鎌など農機具の手入れをしていました。
 そしてまた、しばらく経って畑の方を見遣ると、矢張り山鳩が同じ場所に蹲り、小さな首をややこちらに向けてじっとしています、同じ処で身動きせず、羽毛を膨らませて居ます。「どうかしたのだろうか?」と思って山鳩をじっと見ていた、その瞬間、私は胸の内で思わず声を発しました。

 

「なんだ! お母さんか。そんな処で何をしているの?」

 

 山鳩はやや首を傾げたかのようですが、矢張り黙って同じ姿勢で蹲っています。私はまた声にならぬ声で、その山鳩に向かって訊ねました。それはもう、その山鳩こそ、間違いなく7年前に亡くなった母であることを、私は確信したからです。

 

「また、どうして来たの?」

 

「お前がどうしているか、見に来たのだよ」

 

 しばらく合間を置いて、山鳩は応えました。いえ、山鳩が声を発した訳ではありません。でも明らかに、その山鳩は私に向かって語っており、その声が私には確かに聞こえたのです。

 

「すると、今はお父さんと一緒だね」

 

「いいえ、お父さんはもっと空の上。私もそろそろお父さんの居る処へ行くから…」

 

 それで母は私に会いに来たのだと思いました。父は40年ほど前に亡くなっていますが、その父を追って母は更に天上へ旅立とうとしているのかも知れません。

 

「じゃあ、もう会えないかもしれないね」

 

 そう言うと、山鳩は少し首を傾げたようでした。生前、小柄な母は私の言うことを聞いて納得や理解を得た際、やや俯き加減で軽く頷く仕草をしていたのですが、山鳩もその母の仕草を真似るかのように首を項垂れました。

 

「僕もそうのうち、そちらへ行くよ。でも、まだやることがあるから、すぐには行けないけれど…」

 

 母は黙っていましたが、コクリと小さな頭を下げ頷いているようでした。そして、しばらくして頭をもたげると、羽音を立てながらさっと舞い上がり「ほろほろ」、一声を発したかと思うと、羽音を立てさっと空へ向って舞いあがったのです。そして空の高みでくるりと旋回した後、手前の笹竹の群れの上を越え、さらに背の高い杉の森の上を越え、やがて青空の中へ消えていきました。

あとには「ほろろ、ほろろ…」山鳩の鳴き声だけが、私の耳に残りました。畑はまた一層、静まり返ったかのようで、森から森へとそよ吹き渡る風の音だけが聞こえます。私は再び無口になってしまって、先ほどまで続けていた農機具の片付けを始めたのです。

 その数日後のことでした。「また山鳩に会えるかもしれない」などと思いつつ畑へ足を踏み入れカボチャ畑の草取りをしていましたが、山鳩の姿はどこにも見当たりません。本当にあの森の上の空の彼方へ行ってしまったのだろうか、二度とこの畑に舞い戻ることがないのだろうか…などと、そんな止めどもない思いの最中に、目先に雉が卵を温めているのが目に留まりました。色鮮やか濃厚な赤色の鶏冠(とさか)、深緑の胸の羽毛を纏うオスの雉ではなく、畑の土と同じ色合いのメスの雉です。

 周囲の枯れた麦草と同色の保護色となって、草むらの中にじっとうずくまっています。とそのうち、「ケーン! ケーン! ギガッ…」、遠くで雉の鳴く声が聞こえます。オスの雉が、巣に近づいてきた私のことを知り、「人間がやってきた! 危険だ!」などと叫んでいるのでしょう。そこで私も「ケン、ケン」雉の声を真似てみました。「お前と同じ仲間だよ。安心するがいい」そんな気持ちで声を発し、その場からそっと離れました。

  それから雨の日が四日ほど続きました。一旦、雨上がりの日に玉蜀黍(トウモロコシ)の収穫がてら畑へ出向いたのですが、その時にはすでにメスの雉の姿はなく、巣と思しき草むらには孵化を終えた後の卵の殻だけが残っていました。きっと雉の親子たちは揃って畑から隣の森の中を走り去り、ときには紺碧に染まった空の彼方で仲良く飛び舞っているのでしょう。

  父母の しきりに戀し 雉の声

 (松尾芭蕉 笈の小文より)

 

春の朝~すべて世は事も無し 2015年 弥生

 

時は春

日は朝(あした)

朝は七時

片岡に露満ちて

揚雲雀(あげひばり)名乗り出で

蝸牛(かたつむり)枝に這ひ

神、空に知ろしめす

すべて世は事も無し

 

 この詩は19世紀のイギリスの詩人、ロバート・ブラウニングの代表作である劇詩『Pippa Passes~ピッパが通る』の一節「春の朝」で、これを詩人であり翻訳者の上田 敏が訳詩集『海潮音』の中で紹介したものです。私が中学生の時に国語の授業で習い覚えた詩と、記憶しています。

 『海潮音』が西洋近代詩を美しい韻律で表現した名訳の詩集であると教えられた訳ですが、幼かった私には「春の朝」の詩がそれほどまでに素晴らしい詩だとは感じませんでした。ただ、「時は春、日は朝、朝は七時」という、やや紋切り型ながら短い詩句を折り畳んでいく韻律は、否定し難い説得力を持って、まさしく「時は春」であることを明確に印象付けていると思いました。

 この肯定的で明るい調子の「春の朝」は、長編劇詩の中で少女ピッパが街路を歩きながら歌う詩句です。ところが、ピッパが可愛い声で通りを歩いているその時、ピッパが勤める工場のオーナー夫人は情夫と結託して夫を殺害し、二人で口論している最中でした。しかし、ピッパの歌声とその詩に心を動かされた情夫は、犯した罪の重さに悔やむのです。美しく清らかな声で歌うピッパの傍らで犯罪という暗黒が横たわっていて、その対照を「春の朝」は「すべて世は事も無し」と謳い切っています。

 

 3月も雛の節句を過ぎ、冬篭もりしていた虫が這い出る啓蟄の頃、お天気の良い日を見計らって私は農園へ出掛けるようになりました。私の畑はわずか1,000坪程ですが、周囲の畑を合せると10倍以上の畑地が広がり、その周りは杉の木や竹薮が連なる森に囲まれています。そして、その上には青空が広がり、時には綿飴のような白い雲がふわりと浮きつつ風に吹かれています。そこはかとなく畑全体に漂う春の甘い香りの中、うららに照る春の陽が背中を暖めてくれていて、心が和みます。

 そんな畑の中で草取りや草焼きを始め農具の整理や片付け等、これから始める農作業の準備を進めています。また、馬鈴薯の種の植え付けや、春になって鮮やかな黄の花を咲かせ始めた菜花の薹を採取しています。時折、森の中から聞こえてくる鶯の鳴き声を耳にしながら、寒い冬を震えながら過ごししてきた大蒜やエシャレット、玉葱、蚕豆などが元気良く葉を伸ばし陽春に輝いている様に、改めて農業に携わる喜びに浸ります。鳥の囀り以外は何も聞こえない畑に佇みながら、

 

「それにしても、なんと! 静かで平穏な世界だろう」

 

 言葉にこそ出ませんが、畑に来るといつも、そんなゆるりとした気持になります。かくも自由で平和な暮らしをしていることに、深い喜びと有難さを覚えます。

 

 でも、この世の中は私の気持とは対照的に、常に喧騒にまみれ、争闘に明け暮れ、心の平穏や暮らしの安定が保たれない情況が続いているのも事実です。日常茶飯事の如く親子や兄弟、親族同士、或いは友人、近隣、仕事仲間同士の対立と係争、そして見苦しい殺し合いが頻繁に起きています。過去にあった殺人事件が少しも反省されることもなく、何度も繰り返し頻発しているのです。

 私は高校生の時代に帝政ロシア時代の作家、ドストエフスキーの長編小説『罪と罰』を読んだことがあります。その小説の主人公である貧しい青年ラスコーリニコフは、高利貸しの老婆とその妹を殺したのは悪行の罪ではなく、世の為、人の為の正当な善行であり罰には価しないと考えます。この人間の所業がなすところの悪と善、その行動規範を、如何に解釈すればよいのでしょうか? 更には、人間の存在の意味を社会や国家との関係で、どのように捉えるべきなのでしょうか?

 また社会と国家という視点で見ると、宗教や民族など集団的な規模での殺人事件も世界の、地球上のどこかで頻発しております。特に中東・北アフリカのアラブ諸国ではイスラム宗徒達の紛争が日常的に繰り返され、同時に多くの犠牲者も出て、それはまさに戦争状態であるといっても間違いではありません。世界の多くの人々は平和を願っているに違いありませんが、現実はその反対の武力による衝突が、この地球上で無差別的に、しかも正当な理由も無く続けられているのです。

 幸い日本は世界大戦で敗戦した後、今日まで武力による侵害や衝突が発生することなく平和裏に過ごしてきました。とはいえ、これからも戦争の無い平和な国として存続していけるかどうかは分かりません。好むと好まざるとに拘わらず、何時しか民族的、宗教的、地域並びに国家間の利害的な対立の渦中に組み込まれることだってあるかも知れません。

 現に過去の戦争に関わる歴史観、或いはその償いと領域を巡って日中韓の3国は政治的に対立しており、更に朝鮮半島では戦争の火種がくすぶり続けている情況を顧みる時、日本も戦争に引きずり込まれる可能性は否定出来ないでしょう。それというのも、戦争によって近隣諸国へ侵略、支配した日本の犯した罪と罰が、今もなお中国や韓国の人々の心の中で消え去ることなく、また罪の償いが十二分に果たされていないとの認識が現存しているからです。平和条約を交わし国交を正常化し、罪状の証しとして金銭的な保障と経済的な援助を施したからといって、戦争の生々しい傷痕がすべて癒されたとは言い難いことを、戦後70年を経た今、改めて日本は考えなければならないと思います。

 ちなみに、私の父は軍人として満州大陸に三度、赴き、斥候兵として現地の最前線で軍事活動をしていたそうですが、その父が高校生だった私に、こんな話をしたことを今でも覚えています。

「日本軍は、中国人に穴を掘らせ、縛りあげた上、穴の周りに座らせ、一人ひとり日本刀で首を切り落としたのを見た」

 この父の話が本当かどうか? 私には判断がつきかねますが、まさか父は息子に全く出鱈目なことを言ったとは思えません。この事は、私に一度、話しただけで、以後、父は話すことがありませんでした。というより、父は戦争体験についてほとんど語ることはなく、ただ時折、寝ていて夢の中で叫び声や唸り声をあげたりしていることがありました。そんな父を見て母は「きっと戦争の夢を見ているのでしょ」と呟いていました。

 そんな父の戦争体験をひとつも知らず、私は戦後の平和な日本社会の中で暮らしてきました。そして今は、のんびりと田舎暮らしの日々を送り、畑の土と戯れているのです。

 

  おや! 畑の遠くの外れで子供達のはしゃぎ声が聞こえます。どうやら人参を掘り出す手伝いをしているようです。本当に子供達の声は元気そうで、遠くに離れていても良く聞こえます。まるで小鳥の囀りのように! そうそう、ピッパの如く「春の朝~すべて世は事も無し」と歌うかのように…。

 

桜の花の咲く頃は

うらら うららと 日はうらら

ガラスの窓さえ みなうらら

学校の庭さえ みなうらら

童謡『春の歌』野口雨情作詞、草川 信作曲

 

種子の連鎖と生命の輪廻転生 2014年 師走

 大根の つるべ落としに 震えたる

 

 秋の日の夕暮れが大変、早いことは誰もが承知しています。その夕陽の様は、まるで釣る瓶が井戸の底へストーンと素早く落ちていくかの如くです。ところが、お日様が当たる昼間に干した大根は、陽が落ちようとしているにも拘わらず、忘れられてしまったかのように竹竿に掛けられたままで、辺りの冷えた空気に震えています。

  沢庵(たくわん)用の大根は近隣の農家から買って、それを妻のノーリンが漬けていましたが、昨年から自前で栽培し、今年は300本余りを植え付けました。その大根を畑から引き抜き、一本一本手洗いし、葉の部分を縄で結わえて、竹で組んだ稲架(おだ)に掛けます。生姜や薩摩芋、大和芋等の収穫を終え、また玉葱や蚕豆(そらまめ)など種苗の植え付けや播種(はしゅ)を終えた11月中旬、私達は沢庵用の大根干しの作業を開始しました。

葉茎の部分を縄で巻き結んで吊るす大根干し
葉茎の部分を縄で巻き結んで吊るす大根干し

 その最中、十数年振りに東京からエミさんが訪ねてきました。彼女は私達夫婦の仲人で結婚式を挙げたのですが、幼い子供2人を抱えて離婚しました。その後、私達は東京から極楽寺へ移り住み、エミさんは子育てと日常生活に追われ会うことが出来ませんでした。でもエミさんは、私達へ挨拶をしなければという思いで暮らしていたとのことで、ようやくその機会を得て我が家へ訪ねてきたのです。丁度、私は大根を洗っているところでしたが、その手を休めて彼女を迎えました。

 

「やあ、久し振りだね。元気そうじゃないか」

「御無沙汰しました。なかなかお訪ね出来ずに済みません」

 

 結婚当時の愛らしい彼女から、今や高校生と中学生の子供を持つ母親へと変わっていましたが、やつれた様子もなく、私もホッとした気持になりました。そして今更、離婚の話を持ち出したところ、どうにもなる訳でもないし、また敢えて労りや慰めるような言葉は避け、お互いが無事、安泰に暮らしていることを喜び合いました。そしてエミさんは訪ねてきた早々、「畑が見たい」と言うので、妻が昼食の支度をしている間に我が農園へと、彼女を案内したのです。

 

「わあ、広い! この畑に今、どんな野菜を植えているのですか?」

「これから冬を迎えるので沢山の野菜はないけれど、ニンニクとかタマネギ、ニラ。ほら、このソラマメも芽を出したばかりだ」

「可愛いですね」

「そうだね。種を蒔いて、こうして芽が出てくると、何とも言えない喜びというか、自然の素晴らしさを感じるよ」

「でも、これから冬になって寒くなるのに、大丈夫ですか? 雪が降り積もっても…」

「うん、これらの野菜は冬を越して育っていくのだ」

 

 聞かれたところで、その学識的な理由は解りませんが、これらの野菜は霜や雪で凍てつく寒い冬を経て春を迎え、初夏の頃、成熟します。冬季の厳しい季節を乗り超えて生育していく野菜の逞しさには、いつもながら頭が下がる思いです。それからエミさんは、私達と昼食を摂ったり、妻と四方山話したりして、夕方に帰っていきました。

 

 それにしても最近の人々は、よく離婚をしていますね。報道によると、数分に1組が離婚しているとか。本当かどうか分かりませんが、離婚率が相当に高い傾向は事実のようです。実は残念なことに、私達夫婦はエミさんを含め今までに5組の仲人役を務めたのですが、そのうち2組が離婚してしまいました。そればかりでなく、私の友人、知人の中にも結構、離婚した方もいて、ちょいと驚きます。

 結婚した以上、どのようなことがあっても「共に生涯を添い遂げる」と偕老同穴(かいろうどうけつ)の精神を尊ぶ私達世代は、どんなに夫婦喧嘩をしようとも、その障壁を乗り越える強い気持を持って生きてきました。しかし、そんな思いは今の世には通じないのかも知れません。

 思えば私が青少年時代、父親はよく「両親が元気でちゃんと揃っていることこそ一番、幸せなのだ」と言っておりました。私の父は家庭が貧しく幼い時から奉公に出され、親の愛情とは無縁に育った人間でしたから、それだけに親の有難味を強く感じていたのでしょう。

 その点、私は両親の愛情に支えられて育ち、大人になって結婚し、子供を育てるという、ごく一般的な家庭の世代交代を経験してきた訳ですが、そのことを今更ながら有り難く、亡くなった両親に感謝しております。そして私達の子供に対しても、決して裕福な生活ではありませんでしたが、共に愛情と慈しみをかけて育て、その子らは今や大人となり結婚し、それぞれ家庭生活を営みながら就業と学業に励んでおります。こうした私達の両親から子供達へと繋がる生命の輪廻転生は普通の家庭の営みの姿ですが、実はこの当たり前が最近の人々の日常から消失しつつあるのでしょう。

 

 思えば野菜も、その種子の次元で輪廻転生を繰り返していることに気付きます。私が栽培している作物の南瓜(すくなカボチャ)や大豆(青大豆)、紫蘇(青シソ)、もっか芽や葉を伸ばしている大蒜(ホワイト六片や紫ニンニク)、菜花、野良坊菜なども、その種を採取して、再び畑の土に還し育てています。大蒜は前回のブログでも書いたように、昨年、突如として現われた「大蒜の神様」の球根をその年の秋に植え付け、そして今年の6月に収穫した神様の子供達の球根を10月に植え、今、芽を出し葉を広げているのです。

 野菜に限らず、すべての植物はこうして種や球根、或いは花粉などによって、生命の遺伝子を次世代へと引き継いでいます。この営みは人間が地球上に生息してきた時間よりも遥かに長く、例え人間が滅びても植物達は絶え間なく生命の存続を連鎖させていくに違いありません。

 

 それにも拘わらず現代人は、生命の輪廻転生の掟と異なる次元で暮らすことを是としているのでしょうか? 昨今の離婚率の高まりだけでなく同性愛の結婚なども、成熟した現代社会の風潮を物語っているかのようです。結局それは、家庭の崩壊をもたらすことに繋がっている訳ですが、私は「崩壊」というよりも「喪失」であり、もっと言えば「遺棄」ではないかと思うのです。「遺棄」とは忘れ去った結果でもありますが、或いは意識的に捨て去った行為と受け取めてもよいでしょう。

 この風潮の要因を糾すと、政治や経済の実益主義がもたらしている現代の社会構造、教育や情報が不安定に傾斜した文化社会、軍事を始めとした国際社会の秩序の混乱、そして地球的な自然環境の荒廃現象などが考えられます。そのような潜在的な不安が、特に成熟したと言われる国家、社会の根底で、人々の心の中に疑心暗鬼をもたらしているのではないか? 故に、生き方そのものが刹那的であり仮想的になっているのではないか? 現代社会における人々の感性や思考が希薄化しているのではないか? そう思わざるを得ません。

 こうした障壁を乗り越え、豊かで幸せな生活空間と暮らしを獲得し、人格と個性を高めつつ、人として実りある成長を実現していく為に、私達はまず自らを律し戒めつつ、伴侶や子息に対し愛と慈しみの精神を持って接し、健やかな家庭の構築並びに地域社会への貢献と連帯を目指していくべきではないか。

 その意味で「隗より始めよ」の格言通り、自らの家庭生活から見直し始めることが大切だと思います。すなわち、子供を産み育てる以上、親はその義務と責任の名に於いて子供の健康と安全を守り、さらに人間として正しく生きていく良識と叡智を与えなければなりません。この当然の親の務めを確認すると同時に、夫婦の絆をなお一層、強めていくことが大切です。

 そんな思いで私達の子供が幼い頃、食卓の座右に<子供八訓>なる標語を置いて、朝食前には必ず読誦させました。もう30年ほど前のことですが、参考までに紹介し、今日の日記を閉じます。

 

早寝早起(はやね、はやおき)

正礼明答(ただしくあいさつ、こたえははっきり)

節食清掃(きちんと食べて、いつもきれいに)

仲友楽遊(ともとなかよく、たのしくあそぶ)

  

大蒜の神様 2014年 水無月

「どなたですか、あなたは? 大蒜には相違ないけれど、ただの大蒜ではありませんね。かくも大きくなるとは! もしかしたら…」

 

「さよう。わしは神じゃ。大蒜のな」

 

「その神様が、何故、我が家の庭先に出てきたのです。私は種を蒔いた覚えがありません。なのに…」

 

「気まぐれじゃ。わしはこの地球上のありとあらゆる場所に、いつでも出没することが出来る。こたびも春になってひょいと顔を出したら、そなたの庭先じゃった」

 

「それにしても驚くばかりです。毎年、大蒜を栽培していますが、このように大きく立派な大蒜は見たことも、作ったこともありません」

 

「うーむ。そなたは己が熱心に大蒜を栽培している故、その精進の甲斐あって神様が現われたと思いたいのであろうが、決してそうではないぞ。人間どもは兎角、そのような美談を好むようだが、まさか、そなたは昔話によくある善良な爺ではあるまい」

 

「いいえ、そのような自惚れはありませぬが…でも、私が大蒜を作っていることを、よくご存知ですね」

 

「わはは、わしは大蒜の神じゃ。大蒜のこと、すべてお見通しぞ。まあよい。それよりも、わしはしばらくここにおる故、やがて収穫期になったなら、遠慮なくわしを土中から抜き取れ。しかし、食べてはならぬぞ、決して! このわしは球根を六つ持っておるが、それを皆、秋になったなら畑に植えるがよい。そうすれば来年には、六つのわしの子供達が育つ筈じゃ」

 

「はい、心得ました。仰せの通りに致します」

 

 昨年の春のことでした。庭先に現われた一本の大蒜と交わした会話です。おそらく前年の種が零れ落ちたのでしょうが、間違いなく大蒜の茎と葉が地上から現われ、日増しに育っていきました。それもただの大蒜ではない太い茎と大きな葉を携え、ぐんぐん伸びていきます。農業を始めてから9年間、毎年、大蒜を作り続けてきましたが、これほどまでに立派な大蒜を見たこともないし、もちろん作ったこともありません。


「本当に大蒜だろうか? それにしても、何という大きさ! 」

 

 時折、その大きな大蒜を眺めては、妻のノーリンと話し合っていました。するとノーリンは笑いながら、

「今まで大蒜を一生懸命、作ってきたから、きっと神様が現われたのでしょう」

などと言います。やっぱり! 誰が見ても神様としか思えません。否、そのように解釈せずにはいられない、何とも説明がし難い不思議な出現でした。そして初夏が過ぎた水無月の頃、その大蒜の神様は大きな花の蕾を頭上にかざしながら長く太い薹(とう)を伸ばし、やがて首頭(こうべ)を垂れ、他の大蒜と同様、収穫時期を迎えました。言うまでもありません。私は神様のおっしゃる通り、神様を地中から引き抜きました。

 そして昨年の秋10月、大蒜の種を植え付ける頃となり、私はそれら神様の六つの大きな球根を植え付けました。肥料を充分に施し、それぞれ等間隔に畝の真ん中に穴を開け、そーっと置いて土をかぶせたのです。果たして神様の子らは芽を出すのでしょうか? 私の心配も何のその、子供達は芽を吹き出し、やがて畑が一面、雪で覆われたり、大蒜の根元の土が凍り付いてしまう寒い冬を過ごした後、春がやって来ると、その茎や葉は青青と、日増しに逞しさを加えていきました。

 

「やっぱり違うわね。他の大蒜も結構、立派に育っているのに、神様の子供達は、もう一回りも大きい」

 

 今年3月から4月にかけて、その育ち振りは一見して他の大蒜とは異なり、妻のノーリンも畑に来る度に感心していました。茎も太いし葉も大きく厚みのある深い緑色で、大蒜の神様よりはやや小ぶりながらも、姿形はほとんど変わらないように思えました。さらに5月には薹が伸び、順次、それを切り落として花瓶に挿しまたところ、薹の先端の蕾が開き、美しい白い花が咲き零れました。

・六つの御子の薹と蕾を摘んで部屋に飾った

 こうして六つの御子が育ち、今年6月に収穫期を迎えることになりました。しかし、5月下旬から上海早生(紫大蒜)、青森・岩手産種のホワイト六片の順に収穫しましたが、神様の御子はいつまでも葉が青く、結局、収穫したのは6月中旬になりました。

 

 それにしても素晴らしい大蒜の姿形です。矢張り神の子は神なのでしょうか? これら御子の球根をばらすと、全部で36個余りの球根が得られますが、それらも今年の秋に植え付けましょう。そして来年には36の神様の孫が、きっと生まれ育つことでしょう。

 大蒜も他の野菜と同じように毎年、種や球根が植えられ育まれ、やがて成長し収穫され、再び人の手で植え付けられる繰り返しが果てしなく続いていきます。同じく人間もまた、親から子へ、子から孫へと、その生命(いのち)が引き継がれています。この輪廻転生は生きとし生けるもの、自然界の定めなのでしょう。
 その定めに従い、やがてこの世から消え失せる己が生命を思うとき、人の命の有り様と、死後も存続する人の世の有り様とは何か? 大蒜の収穫を終えた今、改めて想いに耽る今日この頃です。

  

心のどかに謡ひてみれば 2013年 霜月

    極楽寺の里山も、やがて冬を迎えようとしている
    極楽寺の里山も、やがて冬を迎えようとしている

 

塵マミレノ酒盃ハ 空樽ヲ恥ジ

寒ゲナ菊華ハ 徒ズラニ自ラ榮ユ

襟ヲ修メテ 獨リ閑(のど)カニ謡ヒ

緬焉(めんえん)トシテ 深情ヲ起ス

隠遁ハ固(まこと)ニ 娯(たのしみ)多シ

氣長ニスレバ 成ル無カランヤ

  <陶 淵明『九日閑居』よりの一節>

 

 中国・東晋の詩人、五柳先生と称する陶淵明が田舎暮らしを綴った詩の一節です。題名の「九日」とは、旧暦の9月9日、重陽の節句のことで、日本では「菊の日」とも言われています。その菊の華が鮮やかな秋日和、「樽の中の酒は空となって酒盃はきまり悪そうで埃を被っているし、菊の華も勝手に咲き誇っているばかり。あきらめて衣の襟を合わせのんびり謡うと、心の奥底の深い想いが沸き起こってきた。いやいや、貧しくも隠遁(いんとん)の暮らしは誠に楽しみが多い、まあ、気長にやれば何事も出来ることであろう」と、田舎のわび住まいの心境を詩に託しています。

 

 振り返って、私も上総國極楽寺の田舎家に転居して早や9年が経とうとしています。60年近く住み暮らした都会を離れ、新天地であれもやろう、これもしよう、などと思っていましたが、時の流れは流星の如く、未だに期することが不充分のまま月日が経ってしまいました。あえて出来たことといえば、道楽農業を少々、楽しんでいることと、ぽつぽつと駄文を認めている程度です。

 やりたいことは沢山ありますが、時間的にも体力的にも限りがあり、淵明とは異なり深情はいまひとつ起きません。いつもお天気模様に心配しながら、野良仕事に追いまくられ、果ては腰痛などの病魔に脅かされながら、その間隙を縫って囲碁やスポーツを楽しむ暮らし振り。でも淵明の言うが如く、今更あくせくせず、心のどかに自然の赴くまま生活していくしかないのでしょう。

 

 そんな心境の折、10月に実弟の病の見舞いに妻のノーリンと尾張へ参ることになりました。二人して久し振りの旅行で、千葉から東京を経て名古屋へと都会を巡る2泊3日の旅でした。それ故、東海道新幹線に乗ったり、名古屋の洋風ホテルに泊まったりの道中、極楽寺の田舎者にとっては、どうにも性に合わない旅情でした。

 出発の当日は非常に暖かかったせいか、電車の冷房風が強く、ついにくしゃみが出る始末、新幹線の車中もただ寒いだけで、どうにも馴染めない車内環境でした。また、都会の電車の中はスマートフォンを手にした若者達が目に付き、その数の多さ故、何やら異様な風景に思えてなりません。おそらく彼らはゲームで遊んでいたり、友人知人と連絡のやり取りをしたり、これから向かう店舗の場所や売り物を調べたりしているのでしょう。

改めて都会はデジタル社会へと、日に日に変貌しつつあることが窺えます。だからでしょうか? 都会の人々は物事への理解と認識、判断が極めて数値的かつ論理的で、何事も即時的に処理しているように思えます。コンピュータ技術を拠り所に、必携・手引き化された一律の情報伝達社会となり、その波紋は全国的に広がっています。

 ですから、都会から遠く離れた地域でも、都会と同じ看板と店構えの店舗があって、入り口のドアを押し開けると「いらっしゃいませ、こんにちは」とマニュアル通りの元気な挨拶が飛び込んできて、棚に並べられた商品も矢張り都会とまったく同じ代物であることが分かり、旅情を楽しむなどという昔風の旅が今は皆無に等しくなったことを知らされます。

 これに対し、私が暮らす農村社会は極めてアナログ的な社会で、情報に操られながら慌しく生きているデジタル社会とはまったく正反対の、非論理的で感性が重視される、速度重視よりも鈍感な知性をゆっくり働かす世界だといってよいでしょう。畑で一日中、誰とも口を聞くことなく過ごし、淵明の如く庭先から見る山の姿を眺めながら沈思黙考する生活者達にとって、都会の空気がどうにも合わないのは当然です。

  

 弟の見舞いを済ませた私達は、名古屋から程近い伊賀國の山中に、矢張り田舎暮らしのヒョウドウ夫妻を訪ねることにしました。伊賀へは、実は今年3月に連載原稿の取材で琵琶湖、京都、大阪を巡った後、ヒョウドウ家に寄寓しましたが、期せずして今年再び、妻と共に立ち寄ることになったのです。

その田舎家の主人ヒョウドウとは学生時代から文学の友、酒の友として半世紀にも及ぶ付き合いを重ねてきた親友です。私が20歳代の頃、彼は京都の大学で中国文学を学んでいて、私は彼の下宿に何度も転がり込んでは、奈良や京都の神社仏閣を巡り歩いていました。奈良を散策し夕方に京都の下宿に戻ると、ヒョウドウは関西弁で、

 

「今日は何処ぞ、行っといた?」

「大安寺の貞観仏に会ってきたよ」

「そうか。ところで明日、ミチコが広島からやってくるんや。一緒に白川辺りを散歩せんか

「うん、行こう。銀閣寺も見たいし」

「詩仙堂へも行こうか。中国の詩家が並んでおるし」

 

 古代中国の詩文を学ぶ彼らしい提案でした。しかも彼は、漢文学だけでなく古今東西の文学に精通し、挙句に名古屋の本宅の部屋という部屋の壁には書棚が並ぶというほどの読書家で、その読書量は私などとは比べ物になりません。今も私が漢詩など中国の詩文にいささかの関心を持っていられるのも、永い付き合いの良き友のお陰です。

 また、奥さんのミチコさんとは、私達が若かりし学生時代、京都で初めてお会いしたのですが、その時、ヒョウドウのカップルと私は京都・東山の哲学の道と称される白川沿いを散策し、詩仙堂や銀閣寺を巡り歩いた後、夕方に南禅寺へ辿り着き、名物の湯豆腐を食しました。座敷に上がった貧乏学生の私達は一番安い、具も何も入っていない湯豆腐を注文し、美味しく食べたのですが、勘定は確かミチコさんが払ってくれたと記憶しています。

 

 そして40年余の歳月を経た今、私達四人はヒョウドウ家の別邸で酒を酌み交わしながら四方山話に尽きない夜半を過ごしました。また翌日は、クルマで琵琶湖の畔の古都・近江八幡を見物することになりました。名残惜しいのですが、畑仕事が待っていて帰らねばならない私達夫婦を見送りがてら、近江商人の故郷を観光しようということになったのです。

 いつも素通りしていて初めて踏み入るこの地は、文字通り古式ゆかしい八幡宮や古を偲ぶ豪商の邸宅や文化財など、見所がいくつも残っています。古都の風情を楽しみつつ、昼を過ぎてヒョウドウ夫妻と別れを告げ、琵琶湖を後にしながら車中にて、心のどかに歌詠みなどしてみました。

 

あふみの海

夕波千鳥 汝(ナ)が鳴けば

情(ココロ)もしのに いにしへ思ほゆ

(萬葉集巻三 柿本朝臣人麿の歌)

 

声なき心の声を聞く 2013年 如月

 

木枯らし途絶えて さゆる空より

地上に降りしく くすしき光よ

ものみな憩える しじまの中に

きらめき揺れつつ 星座はめぐる

唱歌≪冬の星座≫ふーみん農園ソング・冬の歌

 

 この文部省唱歌は、私が中学1年生の時に音楽の授業で習ったと記憶しています。19世紀アメリカの作曲家ウィリアム・ヘイスが作曲した歌曲『Molly Darling』を日本の作詞・作曲家の堀内敬三が訳詞したものです。

 穏やかな曲の調べも好きでしたが、何よりも美しい歌詞の響きに感じ入りました。「さゆる空」、「くすしき光」、「みな憩える」、「しじまの中」、「きらめき揺れつつ」など、歌詞全体が美しい日本語で満たされていました。同じく2番目の歌詞も「流るる銀河」、「オリオン舞い立ち」、「スバルはさざめく」、「無窮を指差す」等々、現代の用語とは異なる優しさに満ちた日本語の歌詞が、まさしく満天に輝く星空のように全曲に散りばめられいます。

 だから私は音楽の時間が大変、好きでした。もとより歌は上手ではありませんが、クラスの皆と一緒に歌うので私の声は誰にも気付かれる筈もないので、その分、自ずと声も大きく発して精一杯、歌うことが出来ました。今でもその名を覚えていますが、三谷(みたに)先生という男性教師が音楽の担任教師で、顔も身体も細長い割に発する声は太くバリトン歌手のようでした。

 そして三谷先生の授業は、難しい音符の謎解きや音楽理論を学習するよりも、先生のピアノ伴奏で合唱したりレコードを持参されクラシック音楽を鑑賞するなど、もっぱら歌ったり聴いたりするのが多かったので、1週間に1度の授業でしたが、私は音楽の授業が本当に楽しみでした。

 

「くすしき光よー、の<奇しき>とは、どういう意味かな? はい解かる者!……なに、分からない。言葉の意味が分からなくては歌えないではないか。奇しきとは、怪しいとかいう意味だけど、ここでは尊く美しい光というように解釈すれば好いかな。じゃあ、しじまの中の<しじま>とは? シマダ!……いつまでも頭を掻いていないで答えて。……分からないのか。うーむ。では、他に分かるもの? なんだ、しじまとは君達のようなことだ。物音ひとつしないシーンと静まり返っている世界だ。そこにキラキラと星空が輝いているという意味だよ」

 三谷先生は、皆で合唱する前に歌詞を説明される。そして今度は、皆が歌い始めると、時折、ピアノの伴奏を止めて、

「誰だ! 流れる銀河なんて歌っているのは。いいかい! 流るる銀河だ。それとギン<ガ>ではなく、ギン<ガア>と、舌を上に丸めて口の奥の方で発音する。ではもう一回、ハイ!」

 こうして三谷先生は、歌の意味と歌い方を説きながら、教室の生徒全員が声を揃えて合唱する、或いは二部合唱・三部合唱、時には輪唱などを試みながら、音楽教科書を次々にめくりながら歌の授業を展開されていきました。

 

 そんな中学生の時代から早や、半世紀余りが経ってしまいましたが、今もなお冬の空を見上げると、大きな臼型をしたオリオン座が東方から舞い立ち眼前に迫る冬の夜空が変ることなく見られます。それら星座の数々が漆黒の空にきらめく空を見上げる度に、『冬の星座』を歌った中学生時代の頃が今更ながら思い出されます。

 当時はクラスの友達だけでなく、同じ学年の生徒達、また学校中の先輩も後輩達も皆、共に学び、遊び、時には悪ふざけしたりして仲良く暮らしていました。勉強が出来ても出来なくても、貧しい暮らしをしていても金持ちの家柄の子でも、そんなことにひとつも分け隔てなく、むしろ弱い者を皆で助け合うように付き合っていたものです。

 今日のような頻繁に起きている学校や職場などでの「苛め=いじめ」や「体罰」など悪質な暴力を振るうことは、ほとんどなかったように思います。少なくとも私や私の周囲の友達達は対人関係に向き合うより、もっと自分自身の行動やその先行きに関心を持って、勉強やスポーツに取り組み、また無邪気に遊んでいました。皆の心は、子供のように率直で、純粋だったと思います。 

里山の田圃も畑も森も、まだ枯れ野の冬だけど、農家の庭に降り注ぐ陽射しは暖かく柔らかい
里山の田圃も畑も森も、まだ枯れ野の冬だけど、農家の庭に降り注ぐ陽射しは暖かく柔らかい

 その当時(昭和30年前後)、私が住んでいた東京都区内も、太平洋戦争で日本が破れ敗戦国の貧しさがそこはかとなく漂っていましたが、人々の生活や暮らし振りは明るく前向きで、学校も地域社会も絆(きずな)を大切にしながら生きていたように思えます。ですから子供達の行動や思考も地域の大きな枠組みの中で捉えられ、育まれていったのではないかと考えます。

 その是非はともかく、今日の学校のみならず職場においても頻発している“苛め社会”を見る限り、私が子供の時代とは大分、異なった社会様相を来たしているようです。時を経てその大きな違いとは、人と人との心の絆が希薄になったことと思われます。

 現代の絆は非常に物証的、かつ利害的です。心を働かせるのではなく、論理を拠り所に人間関係を築いているようです。自由と民主主義の名の下に人権の保証と個人の権利が優先され、その主張の正当性ばかりが強調されています。論理を述べるばかりで、心の倫理が働いていません。心の動きは曖昧で、いつも揺らぎ不確かな面が多々あります。だからその分、物事をよく熟考して、自身の心の声を聞き取らなければなりませんが、兎角、物事を短絡的に志向する現代の風潮は、その心の揺らぎに耐え切れていないようです。

 

 改めて思います。農業は心の対話そのものの世界です。天空に吹く風も畑の土塊も植えられた野菜の数々も無言ながら、私達は野良仕事に携わりながら自然界の声なき声を、心を聞き取ろうとしています。野菜の生命の息吹を感じつつ、その生育の姿を見届けながら、いつしか野菜と声なき声で対話しています。だから農業は楽しい。

 それにしても、この冬は特段、寒い冬でした。昨年12月は例年になく冷たい北風が吹き抜け、お陰で畑仕事が思うように進みませんでした。そして今年に入っても雪が降り積もったり、霜で庭一面が真っ白な朝を何度も迎えたり、それ故、畑は泥沼のようにぬかるんでいて、農作業が手付かずの毎日が続いている今日この頃です。

  でも実は、春はもうとっくにやってきています。それは私が毎年、極楽寺の氏神様「三社神社」へ詣でる正月3日でした。自宅から神社まで1キロ余りの道程を散歩がてらにのんびりと歩いていきました。里山の田圃や畑は枯れ野原ですが、どことなくお日様は暖かく輝いて、森の木立や農家の屋根を照らしていました。氏神様を取り囲む樹木の間から木漏れ日が差して、神社に相応しい静かな風情が漂っていました。

 それから一月を経た2月4日、立春。暦の上でも、とうとう春がやってきたのです。陽光は日を追って明るく、再び自然界を蘇らせようとしています。番(つがい)の鶯も庭の小枝を飛び回り始めました。いよいよ農作業を始める時が来たのです。ブログを書くのもこのくらいにして、終わりに『冬の星座』と同じく、美しい日本語で綴られた春の詩『櫻と雲雀』を記し、今日の日記帳を閉じます。

 

雲雀ひねもす

うつらうつらと啼けり

うららかに聲は櫻にむすびつき

櫻すんすん伸びゆけり

櫻よ

我がしんじつを感ぜよ

らんまんとそそぐ日光にひろがれ

あたたかく樂しき春の

春の世界にひろがれ

『室生犀星著『叙情小曲集より』

  

隣は何をする人ぞ 2012年 霜月

 

秋深き 隣は何を する人ぞ

(芭蕉桃青 笈日記より)

 

 地上に降り積もった枯れ落葉が一層、静けさを増し、深閑とした秋の暮れの気配を漂わせて、やがて訪れるであろう冬を静かに待っているこの頃、果たして隣家の吾人は何をしているのやら、物音一つ聞こえる訳でもなく、なおさらに物悲しい秋の深まりばかりが感ぜられることよ。

 こんな感じの句でしょうか。俳人・松尾芭蕉が晩年に大坂・西横堀東入る本町の庵にて、病床に伏しつつ作った発句です。やがて臨終を迎える芭蕉は、隣人に思い馳せつつ深まる秋の気配の中で孤独な己が身を感じていたに違いありません。

 この句について文芸評論家の山本健吉は、著書『芭蕉 その鑑賞と批評』の中で、「隣人と自分との間の、それぞれ孤独でありながら、その孤独を通してつながり合う共通の場への意識がある。~中略~ことりとも音しない隣人のひそやかな在り方は、また自分の在り方でもあり、自分の存在の寂寞さを意識することが、隣人の存在の寂寞さへの共感となるのだ。~中略~その意味でこの句は、芭蕉があらゆる隣人へ、あるいは萬人へ挨拶を送っている句と解釈してもよい」として、芭蕉の死を見詰めた心の有り様を見事に説いています。

 

  隣といえば、このところ日本海域の離れ小島を巡って領有の主権争いが流行っているそうな。昔からよくあった境界線をめぐる隣家同士の紛争とさして変らぬ、誠にもって見苦しい、実に不毛で実りのない争いです。一言で申せば、日本も韓国もそして中国も台湾も、国際社会に恥を晒しているというより他にありません。

 海洋資源が埋蔵される海域は確かに領土として重要かもしれませんが、それよりも大事なことは隣国同士の協調と融和であり、互恵による国と国民の発展、成長ではありませんか。それを「一歩も譲らない」とか「許し難い暴挙」だとか、それぞれ国の為政者達は得意然として語っているようですが、「竹島」や「尖閣諸島」が有史以来、本当に各国が主張する領土であったか? 疑わざるを得ません。

 尖閣諸島に関して言えば、日本の領有の発端は明治中期の頃で、日清戦争後の講和条約を経てより後、たかだか120年足らずの歴史に過ぎません。近代史に鑑みれば、領土問題に関し日本の主張するところの多くを是としても、その近代において日本は隣国へ軍事侵略した事実を看過する訳にはいかず、この観点から領土問題の奥に潜む隣国の民族意識に配慮する必要が大切ではないでしょうか。

 平和と安全を貴び、かつ醜い隣同士の境界線争いを冷ややかに見ている者からすれば、「島の一つや二つ、あげてしまえ」とでも言いたいところです。言うまでもなく、韓国も中国も台湾も日本にとって大切な国です。今日の日本の文化、漢字も仏教も、孔子の教えも李白の詩も、建築や陶芸など暮らしの技術も、朝鮮半島を経由して日本海や東シナ海の波に乗って移転されるなど、日本の文化、風土の基盤は彼らから教えられ学んできたものです。もっと言えば、日本民族の多くの血筋をも、半島や大陸の人々と深く繋がり合ってもいます。それだけに近未来の次元で国益だけを重んじるのではなく、隣国と共に仲良く成長していく「友愛」の道を切り拓いていくべきでしょう。

 

 隣家との争いではありませんが、ここ上総國極楽寺の我が家の界隈にも開発の波が押し寄せつつあり、道を挟んだ向こうの森がついに壊されることになりました。それで、私の部屋の窓から春になると咲き誇っていた山桜の一本が、いとも簡単に切り落とされる日がきたのです。

 その様子を私は2階の部屋で見ていたら、妻のノーリンがチェーンソーを抱きかかえていた男の側に迫って、言い放ちました。

 

「なぜ切るのですか。その桜の木は生きているのですよ」

 

 人との争い事が嫌いな妻が、あえて現場の人間に詰め寄っていました。二人の会話のやり取りは離れていて十分、聞こえませんが、山桜の伐採について問答している様子です。そして、戻ってきた妻が話すには、「ここは私の土地だから、どうしようと勝手でしょう。そんなに切りたくなければ、この土地を買えばいい」と、押し返されたとのことでした。

 妻はしばらく憤慨していましたが、私はこう言って慰めました。

 

「仕方がないよ。相手の土地だからね。怒りたくもなるけれど、どうにもならない。それにしても桜だろうが、楓だろうが、情け容赦もなく切り捨てていくとは…、」

道路を隔てた隣地の森の樹木はことごとく切り倒されていった
道路を隔てた隣地の森の樹木はことごとく切り倒されていった

 こうして機械によって無残にも伐採され崩された秋の景色が、我が家の眼前に広がる今日この頃です。芭蕉とは異なる思いで「秋深き」と嘆息せざるを得ません。それにしても、厳しい残暑を経て稲刈りを終え、秋の実りの季節を迎えたかと思うと、今は落ち葉が風に舞い、朝霜が降りて吐く息が白くなる時節となりました。

 この間、茄子やトマトやオクラを収穫するかたわら、当農園の看板野菜である大蒜(にんにく)や宿儺南瓜(すくなかぼちゃ)、雲南百薬(うんなんひゃくやく)の販売に追われ、気が付いてみれば早くも、晩秋を迎えてしまいました。すでに薩摩芋(安納芋、紅東)をはじめ里芋、大和芋、生姜、唐辛子、大豆などの収穫を済ませる一方、来年に向け大蒜、蚕豆(そらまめ)、玉葱といった冬を越す野菜の植え付けも終えたところです。 

 けれども、春から続いていた腰痛は相変わらず、一向に快癒しません。また、次々と収穫する野菜を産地直売所に納入したり、物産展などのイベントに出店、販売したり、あるいは当農園のお得意様へ野菜を届けるための荷造りと発送作業が続くなど、身辺は慌ただしいばかり。野菜が沢山、収穫できるのは良いのですが、今度はそれを売って捌かなくてはならず、なんだか常々、追いまくられてる思いで、これでは何の為の“道楽農業”か? 考え直す必要があるようです。

 極楽寺に移り住み農業の真似事を始めてから8年、そろそろ疲れが出てきたのかもしれません。野良仕事は山ほどあるのですが、だからといって朝から番まで精力的にやろうとはしません。雑草が大分、生えてしまっているにも拘わらず、いつまでもほったらかしのまま、私の心はやや捨て鉢気味になっているようです。

 ですから、余り沢山、野菜を作って、沢山売ろうなどと思わずに、矢張り道楽農業らしく気ままに、のんびりやるのが好いのでしょう。そこで来年は、農園の規模を縮小することとし、今年新たにお借りした一反(300坪)の畑は地主へお返しすることにしました。腰痛を抱えていることもあるし、二つの畑が北と南に離れているため、作業が必要以上に手間取るためです。従って来年は一反の畑のみで、ゆっくり農作業を楽しもうと、心に決めました。

 ところがです。そう思って間もなく、なんと、従来の畑の隣地が約二反ほど空くことになって、そこを借り受けざるを得なくなってしまいました。従って来年は合計、三反余(約1,000坪)の畑を相手にしなければなりません。すべてが手作業の農業で、果たしてどこまでやれるか? 胸中はいささか不安ながら、「まあ、無理せず、やれる範囲でやってみよう。のんびりやろう」などと呑気に構えることにしました。

 そんなに思いを巡らしつつ、隣家にあらず、隣の畑に何植える 思案の秋ぞ 深まりぬ。

  

国歌オリンピックは楽し 2012年 葉月

メダル アゼルバイジャン共和国
メダル パプア・ニューギニア独立国
メダル オマーン国
第4位 ドイツ連邦共和国
第5位 ボツワナ共和国
第6位 ナウル共和国
第7位 コロンビア共和国
第8位 ルクセンブルク大公国

 

 これは私が選んだ世界の国歌≪ベスト・エイト≫です。あくまで私の音楽的好みで、世界192の国歌から選んで順位を点けました。
 その結果、金メダルの栄光に輝いたのは、世界最大の湖・カスピ海の西海岸に位置する<アゼルバイジャン共和国>の国歌です。曲は緩やかに鳴り響く鐘の音とともに荘厳にして華麗な調べを湛える中、混声合唱が国を讃え国とともに生きるアゼルバイジャン人民の誇りを高らかに謳いあげていきます。
 まるで子供の頃に観た映画音楽のごとく、強きを挫き悪を懲らしめる正義の味方が登場する際に決まってかかる重厚な響き、あるいはフランスの作曲家ベルリオーズが作曲した「幻想交響曲第4楽章・断頭台への行進」を想起させる悲壮にして厳粛な調べが迫真的です。
<歌詞付きストリーミングAzerbaijan National Anthem>フリー百科事典『ウィキペディア』より

 次いで銀メダルの<パプア・ニューギニア独立国>の国歌は明るく快活な旋律に加え力強く勇壮な調べを奏でる名曲、銅メダルの<オマーン国>は宮殿の庭で伴侶を従え威風堂々と行進する王様の姿を髣髴させる音楽、第4位の<ドイツ連邦共和国>は音楽の殿堂に磨かれた流麗華美な国歌の極致、第5位の<ボツワナ共和国>は木管楽器の軽快な調べに乗って爽やかな旋律が展開する名曲、第6位の<ナウル共和国>はシンバルが鳴り響く重厚壮大な楽曲、第7位の<コロンビア共和国>はスポーツの祭典に相応しいトランペットが高鳴る律動的で溌剌とした行進曲、第8位の<ルクセンブルク大公国>はヨーロッパ文化の粋を極めた実に美しい荘重な音楽です。
 このようにアゼルバイジャン以下、8位まで挙げた国歌はどれも甲乙点け難い、素晴らしい音楽です。これら国歌の共通している特性は、元気で(快活)勇ましく(勇壮)、厳かで(荘重)美しい(華麗)点だと言えるでしょう。
 世界の国歌はこれまでに小澤征爾指揮による音楽CDなど数枚を聴きましたが、私が好んで聴いているのは192国歌を収めるペーテル・プレイナー編曲・指揮によるスロヴァキア放送交響楽団が演奏する『世界の国歌集』(録音時間311分)です。その中からご紹介した≪ベスト・エイト≫並びに≪私が好む国歌ベスト36≫を選び、農作業の合間に時折、聴いています。

しかし、残念ながら日本の国歌『君が代』は、≪私が好む国歌ベスト36≫に入っていないどころか、順位を点けると192国歌の最後の方になるでしょう。これも私の単なる好みでしかありませんが、すなわち『君が代』は抑揚のない悠長、緩慢な音楽で、曲の最初から最後まで陰鬱的で快活さに欠け、歌詞についても「国家と国民との関係が明示されていない意味不明な国歌」だと思うからです。
 ちなみに『君が代』は当初、1870年(明治3年)に砲兵隊長を務めていた大山 巌が古今和歌集から歌詞を導き、横浜に駐屯していたイギリスの軍楽長ジョン・ウィリアム・フェントンが作曲したとのことです。しかし、これを良しとしなかった海軍省が宮内省雅楽課に作曲を依頼、伶人(楽人)の奥 好義らが作った旋律を一等伶人の林 廣守が補訂し、海軍軍楽隊の教師であったドイツ人のフランツ・エッケルトが吹奏楽譜として編曲し直しました。
 最初に作曲されたフェルトンの『君が代』は、田植えや稲刈りを手伝ってくださる私のスポーツ仲間で世界の国歌を好んで聴いておられるミサさんから教えてもらいました。そして実際に聴いてみて、私はフェルトンの曲の方が好きだし、率直に良いと思いました。こうして明治当初にできた『君が代』ですが、国歌として正式に制定されたのは25年前(1999年)の「国旗国歌法」によってです。

 そもそも国歌というものは、国家としての威信と威厳に満ち、同時に国民が国家への誇りと崇高な思いを抱く音曲と歌詞であらねばならないと考えます。その国歌としての音楽性が『君が代』にあるかと言うと、残念ながら私には感じられません。
 かつて私はスポーツ競技選手並びにスポーツ団体の役員として、またジャーナリストとして国際的なスポーツの舞台の傍らに参画してきましたが、その際、表彰台に立つ海外の選手達が胸に手を当て誇らしげに、あるいは微かに涙を浮かべながら自国の国歌を歌い聴く姿を見て、彼らの国を思う強い気持に心を打たれたことを何度も経験してきました。そのように日本の国歌も、表彰台で胸を張って棚引く国旗を仰ぎ見る、そして海外の人達も聴き入る感動的な素晴らしい音楽であって欲しいと願うばかりです。

 「国旗国歌法」の制定に際し、時の内閣官房長官は「民族のアイデンティティとなって国際的な人間として我が国の国民が育っていくように私どもは努力していかねばならない」と述べていますが、誠にもって偉そうなことを言っております。国旗や国歌が国民の主体的な精神の象徴であるというならば、国民が夢と希望を持ち得て、世界の人々から羨望と尊敬の眼差しを受ける国際感覚を備えたものであらねばならないと思います。
 今日において日本の国歌を政党綱領の最初に規定したり、『君が代』の「君」とは「広く国民のことを指す」とか、「国歌斉唱の際は起立しなければならない」とか、いろいろなことが権力者の側から決められたり指示されたりしています。確かに国歌斉唱に際し椅子に座ったまま俯いているのは情けない話ですが、そんな規律、戒律のことよりも、私たちは日本の国歌が演奏される時に胸を張って堂々と国歌を高らかに歌えるような日本の国歌を望むものです。

 ロンドン・オリンピックが閉幕しました。歳を足ったせいでしょうか、オリンピックも東京大会以来、何度となく観戦してきたこともあって、殊更に強い感心や興味を持つことはありません。また、日本人選手が活躍しない競技はなかなかテレビ放送されないし、もっぱらの話題はメダル獲得競争のことばかりです。確かにメダルの獲得を競う祭典でもありますが、いつの頃か表彰台で選手がメダルをかじる振りをするなど、下品な真似が流行る祭典とも化しているようです。
 今回のロンドン五輪でも願わくば、表彰式で私が好きな国歌が奏でられ、それを聴くことができればと思っていましたが、その機会は一度もありませんでした。やはり私はテレビでオリンピックを観戦しているよりも、野良仕事をしながら私が好きな国歌を聴いている方が性に合っているようです。


 野菜の収穫・販売に追われる夏でした。8月7日、立秋。いくつもの薄い雲が風に吹かれ、千切れながら青空の彼方に飛んでいきます。日差しは相変わらず強いけれど、風は涼しげに実を着け始めた稲穂を揺すり、暦どおり秋が到来したようです。このところ、夕暮れが近くなると畑を囲む森では、カナカナ蝉が過ぎゆく夏を惜しむかのように声高に泣いています。
 思えば、梅雨に入ってからというもの大蒜や馬鈴薯の収穫作業や販売に忙しく、かたや腰痛に耐えながら茫々と茂る雑草取りに追いまくられた夏でした。“道楽農業”だというのに、農作業を楽しむよりも苦しみを味わう夏でした。

 秋近き けしきの杜に なく蝉の 涙の露や 下葉染むらん
(新古今和歌集 夏歌)

 

われも氣合のよき日なり 2012年 水無月

 

  ほととぎす われも氣合の よき日なり

                   (小林一茶)

 

  畑を囲む森の中で鶯(うぐいす)や不如(ほととぎす)が鳴いています。はじめは森の奥の方でのんびり鳴いていましたが、やがて畑の傍らの樹木までやってきて、森のしじま(静寂)を引き裂くかのように激しく鳴き叫びます。彼らの鳴き声は、さしずめ、

 

「奉 法華居 華居 華居」

「特許 許可局 許可 許可」

 

と聞こえます。特に末尾の「華居 華居、許可 許可」は、非常に強い調子で鳴き、耳をつんざくほどの気合です。俳人・小林一茶も、そんな不如帰の鳴き声に気合を感じたのでしょう。

 実は、鶯でも不如帰でも、私にとって鳥の種別はどうでもよいのです。鳥の名は知らずとも畑仕事のかたわら、さまざまな鳥の鳴き声を聞いていれば、それで充分、励みになります。ですが、収穫作業の手を休めて妻が、

 

「ほら! あの声が四十雀(しじゅうがら)、この声が小綬鶏(こじゅけい)、雉(きじ)も遠くで鳴いている。烏(からす)の声は判るわね」

 

などと、いちいち説明するので、鳥の声を聞き分けるようになってしまいました。

 

 そんな鳥たちの囀りとともに、初夏の明るい光が照り注ぐ畑には青緑の風が舞い、しっかりと実をつけた蚕豆(ソラマメ)の枝葉を揺らしていきます。そして風は、ザワザワと音を立てて樹木を揺らし、森の中を巡りながら再び畑に舞い戻ってくるのでした。そして西の空が茜色に染まる頃、この森の烏の親分こと「勘三郎」は、ひときわ大きな羽を広げ「ハタ ハタ」と、音を立てて私の頭上を飛んでいきました。古巣に戻る前の挨拶なのかもしれません。

 

 上総の田舎の地で畑仕事をしていると、ふっと自分は隠遁者、厭世者になったのではないかと思うこともあります。朝、家を出て畑にやって来てから一日中、誰とも口を利くことなく、耳にするのは風の音と鳥の声ばかり。日暮らし自然の世界に身を置いて、この世の騒ぎとは縁遠い静かな日々を送っているからです。

 しかし、この世の縁を断ち切った隠者に、とても私は成り切れません。静かな田舎暮らしをしているのに、畑の土や野菜と戯れているのに、まだまだ自身が世俗の汚れを落とし切れず、澄み切った心で暮らしているとは言い難い。地球的環境問題や国際的な平和共存問題など社会の動静に関心を抱き、時として心を奪われることがあります。そして今日の日本の社会的、文化的な情況について無関心ではいられません。

 

 日本のことについて言えば、例えば昨今の政治です。にっちもさっちも行かない閉塞的な情況が続いています。為政者たちは、やたら「国民のため」を強調しますが、理屈ばかりが先行し「国民のため」を考える根底が浅いし、何よりも政治家としての“信義”に欠けています。「議会制民主主義」という奇麗な言葉も、あり方次第、運用次第ではまったく異なる、単に党利党略の見苦しい政治を曝しているように思えます。政治が万能でないことは選挙権を戴いてから数十年の経過の中でよくよく承知していることですが、同時にわが国政治家たちの知力の限界を感じざるを得ません。

 そのせいか日本の産業、経済もなかなか元気になりません。活発な企業活動の成果としての利益の多くは内部留保されるばかりで、社会的繁栄に結び付き次世代を切り拓いていく姿になっているとは言えません。「若者の就職難」と言われて久しいけれど、その責任を逼迫した国際金融情勢や海外進出による産業の空洞化現象などの所為にするばかりで、企業も社会も次の時代を担う人材の育成に、今ひとつ取り組みが足りないように思えます。

 それ故に、若者たちも元気がありません。その日暮らしで仕事場を転々と渡り歩いている者や、なかには働く意欲を失っている者、心の病に犯され閉鎖的な生活環境に身を置く者、ひいては自殺や他人への殺傷事件を起こす者も多く現われています。一方、正社員として企業に勤めている若者たちも、毎日、夜遅くまで働かされ、そうすることによってしか生き残れない、家族を養う生活が維持できない、将来が見えにくい情況下に置かれているようです。

 しかし、そうであってはなりません。日本人であろうとなかろうと、あまねく人間は生命の安全と人権が保証されることはもちろん、何よりも生きる喜びや日々の生活を楽しむことができるようになるべきです。誰もが自分の定めた人生の目標や希望や夢に向かって生き、輝き続けていくべきです。そのような世界、そして日本を創造していく知恵と力と意欲を、私たちは獲得し、かつ発揚していかなければなりません。

 

 今年の冬はいつになく寒く、その寒さは春先まで続きました。桜は昨年より一週間ほど遅れて咲いたけれど、実際の季節はそれよりもさらに遅れているように思えます。おかげで農作業も半月ほど遅れているため、作物の育ち具合も芳しくありません。今年は私の腰の痛み具合もあって米作りを諦めた分、楽になったのでしょうが、それでも新たに借りた一反の畑の作業に手間暇がかかりました。その結果、二つの畑に夏野菜の作付けを終えたのは6月上旬、芒種の頃でした。

  3月の馬鈴薯(ジャガイモ)の植え付けから始まり、次いで玉蜀黍(トウモロコシ)や大根(ダイコン)、蕪(カブ)、生姜(ショウガ)の種蒔き、そして胡瓜(キュウリ)、茄子(ナス)、トマト、西瓜(スイカ)、獅子唐(シシトウ)、ピーマンなど夏野菜の苗の植え付け、さらに枝豆、オクラの種蒔きと次から次へと作業が続いたのです。

 かたや昨秋に植え付けた蚕豆、玉葱(タマネギ)、大蒜(ニンニク)、ラッキョウなどが実りの時期を迎え、これら野菜の収穫作業も同時並行で取り組みました。6月8日、薫風が背中の汗を拭ってくれる青空の下、妻と二人で大蒜の収穫を開始しました。大蒜の収穫は晴天下で行うのがベストで、この日を逃すと収穫時期を逸する恐れがあります。

 

「今日が初夏の最後の陽気だろう。お天気に恵まれて良かった!」

 

 畑の畝から大蒜を一本一本抜き取り、畝の上に干し、茎をすべて切り落としたところで、3月から続いた農作業の大半をやり終えた安堵感に浸りました。まだ、育苗中の宿儺南瓜(スクナカボチャ)の植え付けと、7月中旬に大豆の種蒔きが残っていますが、むしろこれからは収穫した野菜の販売に骨を折ることになるでしょう。

 その翌日、上総国・極楽寺は梅雨入りしました。

 

春雷すなわち声を発す 2012年 卯月

 

若草萌ゆる 丘の道

心も弾み 身も弾む

小鳥の歌に 誘われて

私はいつか 歌い出す

童謡《散歩》 フーミン農園ソング・春の唄

 

 萌黄色に染まった草が、なだらかな丘陵一面に生え、青い空は陽光が散乱して白く輝き、眩しく見上げた天空の彼方に雲雀(ひばり)の囀る甲高い声が聞こえる~この唄の歌詞に、そんな春の景色を想像することができます。第2次世界大戦が終わった2年後の1947年に勝 承夫が作詞、多梅 稚が作曲した『散歩』という唄です。私が生まれた翌年に作られた唄ですが、以来、今日まで歌詞を忘れることなく、春となればこの唄が口を突いて出てきます。

 三月の別称である「彌生=やよひ」とは、草木が彌(い)や益々に生え茂る季節、まさしく草木の芽が萌え出でる季節です。しかし、今年はいつまでも冷たい風が吹き荒び、加えて雨や雪が降りしきり、田や畑を濡らし続けました。二十四季節で「立春」を過ぎ、「雨水」、「啓蟄」の頃ともなれば、気温も上昇し春めくのですが、梅の花の咲くのも例年より遅れて、春遅しの感は免れません。

 しかし、「暑さ寒さも彼岸まで」の言葉の通り、春分の日が近づくにつれ、ようやく暖かい陽射しが降り注ぎ、とうとう草木萌え、花咲く春がやってきたようです。私の書室から見える辛夷(こぶし)の花も、昨年より半月遅れでようやく咲き始めました。待ちに待った辛夷の真白な花と再会し、改めて1年が経過したことを思い知ります。

 

      『百姓伝記』岩波文庫版
      『百姓伝記』岩波文庫版

  その1年、365日という時節を私達は現在、地球が太陽を一周回する周期を基とした太陽暦に頼っています。でも私のような農業や野外スポーツを楽しむ者にとって、月の満ち欠けの周期を1箇月とする(朔望月=さくぼうげつ)を基とした太陰陽暦(旧暦)も、自然や季節の移り変わりを知る上で大切な暦であります。旧暦では、特に1年を季節ごとに振り分けた“二十四季節”が、太陽暦では推量できない季節の変化を知ることができます。

 そうした旧暦に基づいて農業のあり方(知識や技術)や農業に携わる者の生き方を説いた江戸時代初期の農書『百姓伝記』を時折、読んでいますが、そのうち「暦」の話について簡単に紹介しましょう。『百姓伝記』はまず、一の巻・四季集序の冒頭に「そもそも春夏秋冬を四季と云う」として1年の暦の数え方を説明し、次いで正月(立春)から順に季節の移り変わり、とその兆しについて記しています。

 その中で、旧暦の二月(太陽暦の3月頃)の説明では、「色々、椿の花咲く。雁は友をもよをして北東へ向かひ、本拠へ帰る。つばくら(燕)群れになりて北東より渡る。桃の花初めて開く。山野辺のひばり木のうへに舞ひ上がり、休む暇なく舞ひ遊ぶ。陽気浮くがゆへ、雷の声を聞くことあり。蕗の薹花開き、つばな野辺々々に出る」とあります。(原文を判り易く修正)

 

 ところで、文中の「つばな」とは「茅花」と書き、和名で「ちがや」とか「ちぬ」と言います。稲科の多年生草木で、野原や田圃や河原の土手など、どこでも見ることができる雑草ですが、今年は寒さが続いたためか、まだ辺りで生えている姿を見ていません。その「つばな」を詠った歌が『萬葉集』に載せられています。

 

茅花(つばな)抜く

浅茅(あさぢ)が原の壷すみれ

今盛りなり

わが戀ふらくは

(萬葉集巻八 春の相聞)

茅花は、いつも風に吹かれ靡いている
茅花は、いつも風に吹かれ靡いている

「今を盛りと咲き誇る壷すみれのように、私の貴女を思う心も盛りです」という意味合いでしょうか。そして後世に、西行法師も「茅花抜く北野の茅原(ちはら)褪せゆけば 心すみれぞ生(おひ)かはりける」(山家集)と詠っています。

 

 こうして茅も菫(すみれ)も生ふる春がやって来て、私の野良仕事も遅まきながら始まりました。今年は、市民農園「極楽の里」の農地45坪を返上し、代わりに新たな畑(一反=約300坪)をご近所の大農家より借り受け、従来の森に囲まれた一反三畝(約400坪)の農地と共に、二つの畑で野菜作りを進めることになりました。

 それにしても、昨秋からまだ癒えない腰痛を抱えており、これで本当にやれるのか? と我ながら首を傾げながらも、その新しい畑に“アンデスの栗じゃが”と称される馬鈴薯「インカのめざめ」のほか「インカのひとみ」、薩摩芋のようにホカホカとした美味しい「レッドムーン」、それに毎年、栽培している「北あかり」、さらには「男爵」と「メイクイン」など、全部で1,000株ほど植え付けました。そのほか、今年は畑も広がったのでトウモロコシと大根、茗荷(ミョウガ)、生姜などを、新しい畑で作付けしているところです。

  一方、従来の畑はというと、昨秋に植え付けた大蒜(ニンニク)や蚕豆(ソラマメ)、玉葱(タマネギ)、浅葱(アサツキ)、ラッキョウが、まだ冬の眠りから覚めないかのようにひっそりと植わったまま、森の彼方から吹き込んでくる北風に、その葉茎を揺らしていました。でも、昨日まで降りていた霜が消えた3月末、妻と共に畑に出掛け、それら野菜の追肥や土寄せの作業を行いました。風は冷たいのですが陽射しは暖かく、その温もりの中で畑の土に跪き、雑草を取りながら、小さな野菜の姿を眺めていると、冬の寒さに耐え春を迎えた喜びをしみじみと感じます。

 

 そうそう、春の訪れとともに娘が二人の孫を連れてやって来ました。二人目の子「つかさ」が生後9箇月となり、ようやく外出できるようになったので、娘は吾が子と荷物を抱えて極楽寺へやってきたのです。それにしても、幼い孫が二人も居ると、家の中は大騒ぎ、ご飯を食べていても、お酒を飲んでいても、なんとも落ち着きません。

4歳になる「ひかる」は元気良くはしゃいだり、我儘を言ったり、かたや「つかさ」の方は当たりかまわず這いずり回わり、立上がったかと思うと突然、転んで泣き叫んだり、本当に春雷鳴り止まぬごとき気忙しさです。いつもの妻と二人の静かな生活とは打って変わった3日間が過ぎ、春の嵐のように孫達は帰っていきました。

 

  

どぶろくは悲し 2012年 睦月

 

「総理、新年おめでとうございます」

「おめでとう。正月早々、呼び立てて済まない。実は年明けの国会で、酒税法を改正したいと思ってな、財務大臣と官房長官たるそなた達に相談するのじゃ」

「酒税を上げるのですね。それは願ってもないことです。ともかく、国家財政の建て直しが喫緊の課題ですから、大いに上げて税金を稼ぎましょう」

「いやいや、そうではない。庶民がどぶろくを家庭で自由に造って飲めるよう酒税法を改正するのだ」

「それは遺憾です。そんなことをしたら、税金が減るではないですか。財務大臣として断固、認める訳にはいきません」

「かつて正月というと、村人達が名主の家に集まって、正月の振舞い酒たるどぶろくを飲んで楽しんでおった。大震災や欧州の金融危機、タイの大洪水などの影響で国民の心は疲弊しておる。ここら当たりで元気を出し、日本の意気と景気を盛りあげるために、どぶろくを造るくらい認めてあげねばなるまい」

「ご無体な! 内閣官房長官として決して看過できません。そんなことをしたら肝心要の消費税だって値上げできるかどうか分らなくなります。総理、どうか思い留まってください。第一、そうなれば私たちの政権も倒壊します」

「倒壊してもやむをえん。しょっちゅう猫の目のようにコロコロ変わる政権など、なんの権威もないわ。そもそも党利党略の政党政治の時代は、もう終わりだ。政党にしがみつき、官僚の言い成りになっている小心翼翼たる政治家なんぞ、なんの価値もない。天下国家のため、国民の負託に応えるために、我が日本は憲法を改正して議院内閣制を廃止し、国民の直接選挙によって国家元首を決める大統領制に踏み切る時がきた。どれもこれも古臭い法律に縛られおって、このままで日本の将来はあると思うか!」

「そうですか。総理がそこまでお考えなら私たちも覚悟を決めましょう。早速、国会の解散手続きをいたします」

「いや、ちょっと待て。その前に閣議を招集して、大臣諸兄にどぶろくを振る舞いたい。正月の祝い酒じゃ。わしも飲みたい。グビッ」

米と米麹と水で造るどぶろくは淡い白濁色が美しい(市販品)
米と米麹と水で造るどぶろくは淡い白濁色が美しい(市販品)

と、喉が鳴ったところで、初夢から醒めました。どうも元旦のお酒を飲み過ぎて、詰まらぬ夢をみていたようです。

 その「どぶろく」とは、米と米麹で造った乳白色の濁り酒で、アルコール度は清酒と同じ15度程度、甘酸っぱいほんのりとした香りがいたします。特に湯あがりに飲むどぶろくの味は格別で、温まった身体に冷えたどぶろくが諸味とともにトロトロと喉元を通過し、やがて胃袋に行き渡る具合は何とも言えません。

 

 一般家庭でも簡単に造れる米の発酵酒なので、さまざまな本や雑誌に「どぶろくの造り方」などという記事が掲載されています。かつて米どころの農家では日常茶飯事にどぶろくを自家生産、自家消費していたし、古来より豊穣祈願の神事においてどぶろくは欠かせない神への捧げ物でした。そこで、酒好きで、お米と至近距離で暮らしている私も造ってみよう、などと思ったのですが、残念ながら酒造免許を持たず無断で造ると「密造酒」と看なされることが判りました。

 念のため国税庁酒税課へ直接、電話をして訪ねましたら、年間6,000リットル以上の酒を生産する事業者もしくは特別に認められた地域(どぶろく特区)でのみ製造・販売許可が与えられており、それ以外の酒造免許を持たない者が酒類を製造すると<酒税法第54条>により、なんと10年以下の懲役もしくは100万円以下の罰金に課せられるとのことでした。

 欧米先進諸国の人々はワインやビールをいとも簡単に家庭内で造って、酒の味わいを楽しんでいるというのに、先進国たる日本? で、なぜ庶民が自家醸造を許されていないのか? 改めて驚きの念を感じ得ません。幾つかの資料を見ましたら、酒税法は政府の主要な税収源として明治時代から定められているもので、特定の事業者のみに製造免許を与える一方、国民に対しは酒造を制約することにより、酒税を取り立てる仕掛けを営々と築いてきたとのことです。

 

しるしなき物を思はずは

一坏(ひとつき)の濁れる酒を

飲むべくあるらし

(萬葉集巻三 太宰師大伴卿の酒を讃め給う歌)

 

「詰まらない物思いに沈まないで、一杯の濁り酒を飲み楽しもうではないか」

 酒を好み、風雅を愛でた万葉歌人、大伴旅人の歌です。そう、旅人のような心境で、新しい年を迎えましょう。そして新年らしく気持を改め、決意も新たに出発しなければなりません。そこで今年は5年振りの“元旦ラン”を実行しました。ランとはジョギングのことで、元日に走るので“元旦ラン”というわけです。

かつて元日というと必ず朝一番にランニングへ出掛けたものですが、足腰の故障などでマラソン大会への出場機会が遠退くにつれ、自ずとラン・トレーニングも少なくなりました。大会も5年前の茨城県土浦市での「第17回かすみがうらマラソン大会」に出場したのを最後に、参加の機会を持つことはまったくありません。しかし、

 

「今年は農業ばかりでなく、スポーツも大いにやろう。少しばかり腰が痛いからといって、いつまでも思い止まっていては大会出場の機会もない。今秋開催予定のアクアラインを走るフル・マラソン、山武市一周の50Kmウォーキング、房総半島一周のサイクリング、南房総での遠泳大会オープンウォータースイミングなどに出場しよう」

 

と、年の初めの元旦らしく、いささかの決意をしたのです。例年、私の元日の過ごし方はというと、朝のお雑煮を食べた後、日暮らし年賀状を書き続け、夜にはお酒を飲みながらオーストリアの首都ウィーンで開演されるウィン・フィルハーモニー管弦楽団による“ニューイヤー・コンサート”の音楽を聴くのが決まりです。

だが今年はひとつ、新たな行事を付け加えました。やがて陽も暮れようとする頃、年賀状書きを一旦、中断して、のそのそと蛙が這うがごとく走り出したのです。でも、久し振りに走るのですから、一向に調子が上がりません。わずか4Kmほどの距離でしたが、ほぼ1時間近くもかかりました。走りながら、左足ふくらはぎの古傷の部分に違和感を覚えましたが、兎にも角にも元日、走ったことの意義を自身で噛み締めたのです。

 

「よし! これなら、やれそうだ。徐々に距離も時間も延ばしていこう」

 

 それからは3~4日置きの間隔でゆっくりと、ほんとうに徐々に、徐々に走り続けています。走り始めて5日目には、かつてよく利用していた陸上競技場の周りの芝生を15周ほど走りましたが、最後の方はスピードに乗って快走しました。「永い地道な努力の積み重ね」を第一義に掲げてきた私のスポーツ人生ですから、病気や怪我に見舞われない限り、これからも私は走り続けることでしょう。 

 そして、元旦のジョギングを終えた私は風呂からあがると、すかさず一升瓶を手元に引き寄せ栓を抜きました。その酒は“白瀑=しらたき”と呼ぶ純米吟醸酒。秋田県最北の町八峰町で明治年間に創業した蔵元(山本合名会社)の銘酒です。無農薬で化学肥料を一切使わずに栽培した酒造好適米を用い、蔵元の裏手に連なる山神山地に湧き出る天然水で仕込んだとのこと。天然自然の恵を湛え、純米酒ならではのこってりとした味わいのある美酒です。

 昨夏、私がスポーツの中央団体(日本体育協会並びに日本オリンピック委員会)から功労者表彰されたお祝いにと、いつも田植えや芋掘りなど農作業を家族総出でお手伝いしてくださる大木ご夫妻から贈っていただきました。大木さんの奥さんが“白瀑”の蔵元に嫁いだ方とお友達だそうで、その縁で、わざわざ蔵元に依頼し直接、送り届けてくれたのです。一升瓶に貼り付けられた『文武』の文字は私の名前で、書道家である蔵元の大奥様が書き付けたとのこと。昨年11月に届いたのですが、余りにも勿体ない御酒なので、正月まで栓を開けずに飾っていたのです。

 この美酒のお陰でしょうか? 元日の夜中に、私は内閣総理大臣になったのです。どぶろくも美味いけれど、白瀑の澄み通った味わいは、五臓六腑に染み渡る思いでした。 

 

一鍬、一鍬が南無阿弥陀仏なり 2011年 師走

 人間は大地において自然と人間との交錯を経験する。人間はその力を大地に加えて農産物の収穫に努める。大地は人間の力に応じてこれを助ける。人間の力に誠がなければ大地は協力せぬ。誠が深ければ深いだけ、大地はこれを助ける。人間は大地の助けによりて自分の誠を計ることができる。大地はいつわらぬ、あざむかぬ、ごまかされぬ。人間の心を正直に映し返す鏡の人面を照らすがごとくである。

 大地はまた急がぬ。春の次ぎでなければ夏の来ぬことを知っている。蒔いた種子は、その時節が来ないと芽を出さぬ、葉を出さぬ、枝を張らぬ、花を咲かせぬ、したがって実を結ばぬ。秩序を乱すことは大地のせぬところである。それで人間は、そこから物に序(ついで)あることを学ぶ。辛抱すべきことを教えられる。大地は人間にとりて大教育者である。大訓練師である。

 

 少し長い引用ですが、仏教哲学者・鈴木大拙の著書『日本的霊性』より、大地の持つ意義について述べた部分を抜粋しました。この著書の中で大拙は、霊性とは相反する精神と物質が対立することなく一つに融合した絶対世界の自覚であるとし、その霊性の日本的な発現は鎌倉仏教の浄土系思想と禅にあるとしています。また、その体現者として浄土真宗の開祖である親鸞聖人について、次のように語っています。

 親鸞は越後へ流され、その後も常陸で田舎暮らしを続け農民とともに鋤鍬(すきくわ)で畑を耕す20年を過ごしたからこそ、大地的な霊性を体得したと言います。すなわち、親鸞は農夫となって畑という大地に振り上げる一鍬、振り下ろす一鍬に弥陀の本願を感得し、即身成仏の本懐に至ったと言うのです。耕作する一鍬、一鍬ごとに“南無阿弥陀仏”がある、とも述べています。

 私がごとき道楽農業の煩悩者には、また神仏に帰依する心ない者にとって、親鸞のごとき絶対世界としての霊性を得ることは到底、望み得ないでしょう。しかし、今までの野良仕事を通して天然、自然の有りのままの姿と、大地の大きな包容力とその営々たる循環の姿に触れてきたたことを、しみじみ有り難く思っています。

 

 12月初旬に東京で結婚式があり、妻と二人で出掛けました。久し振りのウェディング・セレモニーです。親族や友人たちをはじめ、また私が所属する市民スポーツ・クラブの若者達のほとんどが結婚した現在、もう華燭の宴はあるまいと思い安堵していたのですが、最後に残っていたクラブの男性が、遅い春を迎えることになったのです。由緒ある田園調布のカトリック教会において、新たな人生に門出することを誓い合った二人の姿は、大人らしい落ち着きを漂わせ爽やかでした。私も新郎の証人の役を務め、二人の門出のお役に立てたことを嬉しく思っています。

 式を済ませ、近くのレストランで披露パーティを終え、その晩に泊まる娘夫婦宅へ向かう予定でしたが、同じく祝宴に参じた十数名のクラブの仲間達が、どうしても「二次会をやろう」と言うのです。実はこの日、私は65回目の誕生日を迎えたのですが、それで「会長のバースデイ・パーティ」と称し、自由が丘の焼き鳥店へ乗り込むことになりました。そして焼鳥店では、似つかわしくもない“誕生ケーキ”まで用意され、酒も沢山、飲まされ、結局、娘夫婦宅に着いたのは夜の11時半頃でした。

 

「ハッピバースデー・チューユー、ハピーバースデイ・ジジー」

 

 翌朝、やや宿酔気味で寝覚めた私を見ながら、4歳の孫娘が歌っていました。親から歌うよう指示されたのでしょう。やや恥ずかしげな様子で、炬燵の布団に潜りながら歌っていました。部屋の片隅には5ヶ月になった孫息子が「アーアー」と声を発しています。妻と私が二人の孫を抱きかかえたところを記念撮影と相成りましたが、思えば30年前、同じようにわが娘を膝の上に乗せ、あるいは抱っこしていたことが思い出されます。その幼かった娘が、今は二人の子の母となり、息子に乳をあげている姿を見るにつけ、今更ながら歳月の流れを感じない訳にはいきません。

 季節の移り変わりのように、こうして人間の生命も、知らず知らずのうちに巡り廻っていくのでしょう。時の流れに命じられ65歳となり高齢者の仲間入りをした私ですが、抗し難い生命の輪廻に従わざるを得ません。結婚し、子供を生み育て、やがて子供も結婚して子供を生み育てていく~こうした人間の生命の循環の中で、同じように人間の死別も、また繰り替えされていくのでしょう。

 

 でも高齢者になったとはいえ、頭の具合は少々ボケたものの、体力の方はまだまだ大丈夫。腰の痛みさえ除けば40歳代前半のレベルだし、これからスポーツも農業も続けていく気持に変わりありません。今冬は腰の養生のために従来にも増して水泳に打ち込みながら、来年10月の木更津市で開催予定の「アクアライン・マラソン大会=42.195㎞」に向け、トレーニングを開始しようと思っていますし、できるだけ自転車に乗る機会をつくって来秋の房総半島を巡るサイクリング・ツアー「ツール・ド・ちば」にも参加するつもりです。

 農作業の方は今12月、あらかた終わり、あとはハクサイやキャベツを収穫する程度、冬枯れの畑には越冬する大蒜(ニンニク)、玉葱(タマネギ)、蚕豆(ソラマメ)が静かに眠っています。しかし、やがてまた花咲き鳥が歌う春がやって来て、宮澤賢治のようにオロオロ歩く暑い夏が過ぎ、青空を背に紅葉が輝く秋が巡り、そして枯葉が木枯らしに舞う冬が戻ってきます。こうして季節は廻り、その時の流れとともに人々は暮らし、生きていく輪廻転生が繰り返えされていくのでしょう。まさしく大地のごとく、営々たる循環を重ねていくものと思われます。

 

 今年もやがて暮れていきます。このブログをご覧になっておられる皆様におかれては、どうぞよいお歳をお迎えください。そして来年は、東日本大震災からの復興が一日も早く叶って、日本の国土が穏やかになるよう、そして被災者の人々が健やかに暮らしていけるよう、祈ってやみません。 祈請 合掌

冬を迎えひっそり静まった畑
冬を迎えひっそり静まった畑

ピアノ・コンチェルトとニンジン畑 2011年 神無月

 

お使いは自転車で 気軽に行きましょう
並木道 そよ風 明るい青空
お使いは自転車に乗って さっそうと
あの町 この道 チリリンリンリン

ミュージカル映画「ハナ子さん」主題歌『お使いは自転車に乗って』

 

 第2次世界大戦がたけなわの1943年(昭和18年)、宝塚少女歌劇団出身の美人女優、轟 夕起子が主演し歌った映画の主題歌です。戦局の後退で軍国主義が一層、強まり、欧米の文化、文明が極力、排除されたこの時期に、自転車に乗って「チリリンリンリン」とベルを鳴らすハイカラーなハナ子さんが主人公として登場しています。このような自転車を題材にした歌は数少なく、戦後は歌手であり俳優の小坂一也が歌った『青春サイクリング』くらいしか聞いたことがありません。

 

緑の風もさわやかに 握るハンドル 心も軽く
サイクリングだ サイクリングだ ヤッホーヤッホー(以下、省略)

 

 この歌はタイトルの通り、若者が行楽を求め自転車で疾走するサイクリングの楽しさを歌ったもので、戦後を通じてラジオやテレビで放送されてきたヒット・ソングです。私がまだ小学生の頃に流行った歌ですが、自転車をお使い用ではなく行楽用として使っている点に、戦後の新しい息吹が感じられます。しかし、サイクリングに関わる歌はその後、ほとんど耳にすることがなかったように、自転車で旅行へ出掛けたりスポーツ競技として楽しむといった欧米流の自転車文化は、モータリーゼーションいうクルマ優先の戦後社会の渦中で、一部のファンやマニアの間で息づいていただけでした。
 私もそのうちの一人だったのでしょう。中高校生の頃、もっぱら独りで東京・中野の自宅から半径50㎞ほどの範囲を走り回っていました。大人になってからはサイクル・ロードレース(アマチュアの草レース)に参加したり、水泳・自転車・マラソンの3種目を連続して行うトライアスロンで自転車を乗り回し、その後、競技スポーツから離れた後も、再び独りぼっちのサイクリングを楽しんできました。クルマに乗っていては判らない、自転車ならではの風の香りや囁きや調べをたっぷり味わい楽しんできたのです。

 

 今年の稲刈りは9月中旬に終えました。しかし、稲刈りを間近に控え私の腰痛が悪化したうえ、頼りにしていた助太刀も都合で来られなくなるなどで、いつもの稲架(おだ)掛け、天日干しができず、挙げ句にお天気も雨模様が続くことが予想されたため、コンバインという稲の刈り取りと脱穀を同時に行う機械で行うことにしたのです。終始一貫、手作業による自然農法の米作りを続けてきただけに残念ですが、腰の強い痛みには屈服せざるを得ませんでした。
 そして、籾摺りの後、米袋に収められた玄米は全部で約340㎏、昨年より20㎏少なく、6俵に及びませんでした。でも、汗水垂らして得られた収穫を心から有り難く思い、天の恵みに感謝しています。そして早速、精米所で白米にしたうえ、お得意様のご希望に応じ10㎏ないし5㎏に袋詰め作業を終え、いよいよ新米を東京へ配達することになりました。配達先は全部で13軒、約180㎏(3俵)ほどです。

 久し振りの東京の街をクルマで走っていると、自転車に乗っている人々を数多く見かけます。みんな楽しそうに乗っています。でも、いささか空気の悪い、信号だらけで交通量が多い都会の道を走っていては、ちょいと悲しい。かつて東京に暮らしていた私も、クルマ社会を横目で見ながら街中を走っていましたが、そんな自転車をめぐる環境は30年経った今日現在、何ひとつ変わっていないように思えます。改め、欧米とは比べものにならないほど日本の自転車文化の貧しさを感じます。

 

「でも、いいな! 自転車って」

 

 早稲田辺りに来ると、学生さん達でしょうか? 若い男女が沢山、自転車に乗って走っていました。しかし、多くの人がヘルメットをかぶらず車道を飛ばしていたり、重いギアでがむしゃらに漕いでいたり、必要以上に高いサドルにまたがっていたり、歩行者を邪魔者扱いに歩道を突っ走っていたり、まともに走っている者は、5人に1人くらい。彼らの姿を車窓から羨まし気に眺めながらも、思わず呟きました。

 

「危ないね、あんな乗り方で…。おまけに、へっぴり腰ばかりだ」

 

 すると隣に座っている妻が、

 

「いつも、そんなこと言って…、自分が乗れないから、ひがんでいるのでしょ」

 

「農業をやっていると、なかなか乗れないよ。昔は、お天気が良いとサイクリングだったけど、今はお天気が良いと畑仕事だ」

 

「そんなことばかり言ってないで、乗りなさいよ。サイクリングの日を決めて、乗ればいいじゃないですか」

 

 思えば、東京から極楽寺へ引っ越してきて、しばらくの間は自転車に乗っていましたが、自動車免許を取得してクルマに乗るようになってからは一度も乗っていません。4台のロードレーサー(競技用自転車)は、みな倉庫に入ったままでした。ところが、新米の籾摺りを終え、ほうれん草や小松菜、キャベツや白菜などの種や苗を植え終えた頃、私はやおら倉庫から自転車を取り出しメンテナンス作業を始めたのです。そして数日間、自転車を洗ったり磨いたり、緩んだネジを締め直したり、部品を交換したりしながら、こう考えました。

 

「あまり農業ばかりに時間をかけないことにしよう。必要以上に作って売るのではなく、自分たちが食べる分だけ作って、余った分だけ売ればいい。一生懸命、沢山作っても、売り上げのほとんどが借地料や種苗代、農業資材、肥料代、燃料代に飛んでしまい、汗水垂らした報酬など還ることはないのだから…。おまけに腰を痛めたり、手足を怪我したり、疲労で免疫力が低下してアレルギーが発症したり、医者が通いも楽じゃない。余りあくせくすることはない。所詮は道楽農業なのだ。自然の流れのまま、ゆっくり作ればよい」

 

 9月下旬、私は4年半振りのサイクリングに出掛けました。なにしろ久し振りに自転車に乗るので、クルマの交通量が多い街道は避け、田圃や畑を巡る農道や裏道を選びながら、軽いギアでゆっくりと回し始めました。パーツの供給やメンテナンスができる近辺の自転車店まで、愛車の走り具合を伺いながら走り始めたのです。空は青く、雲は空高く流れる、絶好の秋日和でした。道行く畑のあちこちに、落花生を収穫している様子や、青々とした葉が出揃ったニンジンに薬を散布している様子が目に映ります。

 

 「やっぱり、自転車はいいな」

 

  風を切る爽やかな気分は、なんとも言えません。30㎞ほど走ると、ようやくペダルも軽やかに回り始めました。そのペダルの回転のリズムに合わせたように、東京のお得意様へ新米を配達に行った際、車中で聴いていたベートーヴェンのピアノ・コンチェルトの音色が胸の内で鳴り始めました。そのうち、転がるようなピアノの鍵盤の旋律が身体中を駆け巡るように聞え出し、自転車のスピードはおのずと速まっていくようでした。
 目に映る景色はニンジン畑。広々とした畑に整然と並んで、真っ青な葉を風に揺らしながら、大地に広がるニンジン。帰り道、夕日を浴びシルエットとなった私と自転車の姿が、長く続くニンジン畑に影を映し出しています。ピアノ・コンチェルトとニンジン畑。なんだか、自転車に似合っています。

 

 「いっそ農業はやめて、スポーツに舞い戻ろうか」

 

 などと思いつつ、久し振りのサイクリングは軽やかでした。

 

自立的な賢い消費者の皆さまへのメッセージ 2011年 長月

ラジオ・ドラマ「鐘の鳴る丘」主題歌≪とんがり帽子≫フーミン農園ソング・野良仕事へ元気に出掛ける歌
ラジオ・ドラマ「鐘の鳴る丘」主題歌≪とんがり帽子≫フーミン農園ソング・野良仕事へ元気に出掛ける歌

 

緑の丘の麦畑
おいらが一人でいる時に
鐘が鳴りますキンコンカン
鳴る鳴る鐘は父母の
元気でいろよと言う声よ
口笛吹いておいらは元気

 

 

 

 この歌は第二次世界大戦で親を失い、家を焼かれ、浮浪児となって都会の巷にさ迷う戦災孤児達を主人公としたラジオ・ドラマの主題歌です。1947年7月から 3年半に及ぶ人気番組としてラジオ放送され、戦後の日本社会に大きな旋風を起こしました。両親を無くしても、元気に生きようという少年の健気な気持が、こ の歌によく表われていると思います。
 同じく今年3月の地震、大津波で一挙に家屋を流され、家族や親類縁者を失った人々、わけても頼みの父母を喪失した震災孤児達のことを思うと、胸が詰まりま す。戦災孤児も震災孤児も悲しみは同じです。悲嘆と絶望を口で言い表わすことができない子供だけに、なおさら可哀相でなりません。彼ら孤児達を私たち大人は皆で暖かく見守り、健やかに育てていかなければと思います。
 それと今、情報の秘匿と対策の遅延により人災にも等しい東京電力・福島原子力発電所の放射性物質の漏洩と拡散事故によって、沢山の人々が避難を余儀なくされましたが、なかでも大きな被害を受けた農家や漁家の方々の苦しみは計り知れないものがあります。生活する糧として作った野菜や茶、あるいは家畜や魚貝類が汚染され、売ることも食べることもできない悲嘆は、道楽農業とはいえ生産者である私にも痛いほど解かります。
 あるいは、放射性物質に汚染されていなくても“風評”によって出荷できず、折角作った農畜産物を廃棄処分せざるを得ない生産者の怒りは、容易に治まることは ないでしょう。風評などという、実に馬鹿げた、冷静さを欠いた偏屈な情報が、まことしやかに横行している現状を許しておくわけにはいきません。

 

 季節は日一日と秋へと移行しています。畑にいると、季節が移り行くさまをはっきり感じ取ることができます。ここ極楽寺では、8月10日に秋一番の風の囁きを 聞き届けることができました。畑に照りつける強い陽射しは依然として真夏の勢いのままですが、秋風は遠く空の彼方から吹き降ろし、森や林や田圃や畑の上を 吹き通り、汗ばんだ私の肩や背中を吹き抜けたのです。

 

「おお! 秋風よ。こんにちは」

 

 思わず声が出てしまいます。そう。秋風の訪れとともに、私達の農作業は秋野菜の種蒔き、植え付けのための畑の整備、そして稲刈りの準備に入っていきます。そ のかたわら、収穫した野菜の販売も行なっていかねばなりません。今夏に収穫した大蒜(ニンニク=青森産種ホワイト六片、上海産種ムラサキ・ニンニク)をはじめ、健康食材の雲南百薬と宿儺(すくな)南瓜、馬鈴薯などをお得意様に直接、届けたり、地元の直売所や朝市、祭への出品・出店などで売りさばきます。
 生産活動のほかに営業、販売活動にも結構な労力と時間を費やさなければならず、本当に大変です。幸い当地での風評被害はないものの、不特定多数のお客さんが相手となる祭への出店となると、逐一、野菜の説明と理解を促す必要があります。
 “有機・無農薬”などというお題目では説得力に欠けていて、お客さんの目線は「値段が高いか安いか」、「大きいか小さいか」、「形が良いか悪いか」といった、 もっぱら見た目が重視されているようです。なかには食味だけして、「この葉っぱ、虫が食っているね」とか「格好が悪いわね」とか、いろいろ批評をされ買わずに去っていく方もいます。とにかく、多様な見方や価値観に対応していかなくてはならないのですから、野菜販売も一苦労です。

 

 消費者の野菜を見る目が厳しくなっているのです。その点で消費者は、自分自身で価格や品質を見定める力を備えてきたと言えるでしょう。それというのも、かつての日本社会は売る側の生産者や卸業者の中に贋物やインチキ商品を売る悪質な者もいて、消費者に大きな損失を与えてきたという経緯があったからです。この ため消費者は、常に不信感と警戒感を抱き、得られる商品情報や商品知識を元に消費行動を起こしてきたのです。いつの時代も消費者は被害者の立場でしかなかったことが今日、消費者が利口になった理由でもあります。
 とはいえ、利口な消費者も時として風評に躍らされることが、たびたびあります。1973年の第一次石油危機の時、諸物価は高騰し、消費者の買い溜めに加え業 者側の売り惜しみによって極度な物不足状態が起こりました。なかでもトイレットペーパーはどこを捜しても皆無に等しい状態だったのですが、何のことはな い、天下の大商社である三菱商事が海岸の倉庫に大量に隠し持っていたことが、後に暴露されました。つまり消費者はトイレットペーパーの買い占めに奔走した 結果、愚かにも戦々恐々の事態をつくり出し、業者の術中にはまったのです。石油危機から40年近く経った今、消費者は利口になり風評に躍らされることは大分、なくなったようですが、しかし、今回の東日本大震災によってもたらされた風評に、疑心暗鬼になっていることも事実です。

 それは消費者が常に情報の受け手でしかなく、商品知識もその範疇でしか得られないためです。消費者が利口になった、賢くなったとはいえ、根本のところで消費 者は情報音痴の状態に置かれています。だから消費者の多くは見た目や価格だけで判断したり、時には風評に左右され、本物の価値を理解するまでに至りませ ん。口では「有機・無農薬の野菜が安心だわ」と言いながら、大半の消費者は、スーパーマーケットで売られている安くて均一的で、農薬を使った大量生産の野 菜を買い求めているのが現実です。 「食の安全性」が問われている割には、冷凍された安価な輸入品を仕入れるなど、現実の消費行動は結構、鈍感な面も見受けられます。

 

 その点、私の野菜を買っていただくお得意様(ほとんどが私や妻の友人、知人ばかりですが)は、有機・無農薬に関する見識が高いばかりでなく、自然の食味を重 視した生活を送っておられるし、さらには当農園に来られ農作業の手伝いをしていただくなど、自ら生産現場と関わり、その実際を学んでおられる方ばかりです。すなわち、情報の受け手に留まることなく、自ら情報を得ながら心眼を持って消費行動を起こす消費者として自立しているのです。

 ですから、そのような方々は、農業生産者の苦しみと悲しみも、よく理解しています。農業がいかに儲けのない仕事か、汗水を垂らした分の見返りが少ない仕事 か、私の説明も聞き届けてくれます。また私たち生産者が、消費者に対しいかに品質の良い作物を送り届けるために努力しているか、商品価格やその出荷・販売 活動について分かってくれています。

 たとえば、私の農園では今年6月~7月にかけてジャガイモを約230 ㎏ほど収穫しましたが、そのうち形の良い、傷のないジャガイモは半分くらいで、あとは必要以上に大きかったり小さかったり、形が悪い不器量な物だったり、 中に は一部、腐っている物もありました。でも我が家では、腐ったジャガイモも決して捨てることなく、腐った部分を切り捨てたうえ食べています。ジャガイモばかりではなく、ス イカもトウモロコシも何もかも、自ら口にするのは品質の落ちた物ばかり、作った農作物が少しでも高く売れることを期待して、良品ばかりを市場へ出荷しているのが現実です。

 そして賢明な消費者は、作られたお米や野菜の尊さ、有難さを忘れません。かつて昔の日本の家庭では、食前に神様や仏様にご飯を供え、感謝の念を述べた後、食 卓に向かいました。畳の上に落ちこぼれたご飯の一粒でも拾いあげて食べました。大事なのは、農作物を作ってくれた方々への感謝の気持と、天の恵みに対する祈念の心でした。
 その意味で消費者はこれからも、自分が口にする食べ物の有難さと尊さをよく噛み締め、これからも風評などに一喜一憂することなく、賢い消費者として自立 していかなければなりません。消費者がもっともっと賢くなっていくことにより、生産者も卸業者も品質の良い適正な価格の商品を提供し、かつ正当な利潤を得て生産・流通活動に邁進していく健全な経済環境が醸成されていくことでしょう。そんな消費者と生産者との有機的な連携の輪が今後とも形成されていけば、日本の農業はより活性化していくのではないかと考えます。

 

「おお! 秋風よ。ありがとう」

 

 秋の実りの季節が、もうそこまで来ています。フーミン農園の田圃の稲も頭を垂れ、秋風に揺れています。

 

草刈り・草取り・草むしり 2011年文月

 

いかがでぇーす 泣きの涙のピーマン

お買いなぁーさぃ ちょいと不器量なジャガイモ

私の市場にゃ 伊達な男がいるよ

一目見ておくれ 山高帽子

歌謡曲≪アンデスの山高帽子≫フーミン農園ソング・野菜売りの歌

 

 戦後の歌謡界を代表する歌手として“美空ひばり”の名は、没後20年余を過ぎた今もなお語り継がれています。歌った曲は千数百曲と聞いていますので、戦後社会において彼女の唄は、ほぼ毎日のようにラジオやテレビから流れていたのでしょう。若い頃の私は歌謡曲や演歌をほとんど聴くことがありませんでしたが、それでも“ひばり”の唄は知らず、耳にしていたようで、小学生の頃から知らず口ずさんでいました。

 でも、彼女の唄が特別、好きだったのではなく、さらにいえば芸能人としての“美空ひばり”は好きにはなりませんでした。それが大人になって彼女の唄を改め聴いたとき、“ひばり”の歌声に 聞き惚れたのです。どのような唄でも、またどんな音域の曲でも上手に歌い込んで、自分なりの唄に昇華する歌手と出会った思いです。戦中戦後の歌謡界にあって私は、歌声の美しさで“二葉あき子”を第一に挙げますが、“美空ひばり”はそれに次ぐ大歌手だと思います。

 その“ひばり”の唄は大きく分けて4期に分けられるのではないかと思います。最初は『悲しき口笛』など彼女が少女時代の唄、次が『陽気な渡り鳥』など映画出演をしながら歌った娘時代の唄、次が『悲しい酒』など外国の歌でも演歌でも何でも歌いこなした彼女が30歳代の円熟期の頃の唄、そして最後が人生の哀歓を歌い込んだ晩年の唄です。

 この中で私が好きなのは『夢の花かげ』『リンゴ追分』『お祭りマンボ』『津軽のふるさと』『娘船頭さん』『港町十三番地』『三味線マドロス』『アンデスの山高帽子』など1950年代の、彼女が14歳から23歳までの若い頃の唄です。その頃の“ひばり”の唄は、はつらつとした明るさに溢れていて、歌声もきれいです。

 そして“ひばり”の唄の中で、どの唄が一番好きか? と問われたら、私は『三味線マドロス』を挙げます。なかなか粋な歌い振り、“ひばり”の節回しや声の調子も、この頃に確立したのではないかと、勝手ながら想像しています。また『港町十三番地』も、私が中学生の頃に何度も聞いていて、その歌詞や節を忘れることなく、いつまでも私の心の中に染みていたようです。

 

 しばらくブログと、ご無沙汰でした。それというのも、田植えが始まって以降、今日まで、野良仕事に追われ放しだったからです。田植えは予定通り4日間ほどで終えたのですが、実はそれからが悪戦苦闘の毎日でした。田植えが終わった2日後から残った苗を追加で植えつつ、田圃の草取りを始めたまでは良かったのですが、しばらくして山水(山の絞り水)を引いている水路に笹の枯葉が山のように積もり、さらには田圃に藻が発生したのです。藻は植えたばかりの幼い稲苗に絡み付き、やがて田圃の全面へと広がっていきました。

「さあ、たいへん!」とばかり、私と妻は毎日のように田圃で藻の除去作業と草取りに追われました。その藻は後にインターネットで調べて「アミミドロ」であることを知りましたが、何度すくい上げても、あるいは一時的に田圃の水を涸らしても、再び水を入れると一面に発生し広がっていきます。その発生の原因は山水に混ざる施設からの有機質に富む浄化排水ではないか? と推測し、以降、山水を田圃へ入れることは止めました。

 このため、田圃への水は側を流れる源川(みなもとがわ)の水をポンプで汲み上げなければなりません。というか、そもそも山水の自然水だけでは間に合わないので、田植えを始める前の「代掻き=しろかき」の段階から川の水を汲み上げているのですが、山水を止めた以上、さらに川水に頼らざるを得なくなりました。

 そこで、また問題が生じました。川水を汲み上げ田圃に水を張ったところまでは良かったのですが、なんと! 翌朝には田圃の水がほとんど無くなっているのです。 

「オオォ、なんと! 水がない」

 原因はすぐ分かりました。モグラです。モグラが空けた穴から、水が漏れていたのです。それからというもの、モグラが空けた穴を見つけては、その穴を雑草や泥土で塞ぐことが日課となりました。穴を見つけては埋め、水が減ったり無くなったりすれば、また穴を捜しては埋めるという、まさに「モグラとのイタチごっこ」を続けています。埋めた穴の数は50ほどになるでしょうか。もう藻どころではありません。自ずと田圃の草取りに手が回らず、「エーイ、どうとでもなれ」とばかり、そのまんま。あたかもフクシマで起きている事件と同じく、対応は常に後手に回り、次から次へと起こる問題に対処している始末です。

 

 こうして田圃の<水とモグラと藻と雑草>の問題を抱える一方で、畑仕事も沢山、控えています。まずは、育苗した宿儺(すくな)カボチャと大豆の畝づくり、ナスやキュウリなど夏野菜の植え付け、およそ500株のジャガイモの収穫と販売、ニンニクの収穫と乾燥作業、それに自宅および隣家の空き地の草刈りなど、野良仕事は山ほど待っています。

 ところが、またまた問題が発生しました。予定より余りにも早い梅雨入りで空はいつも雨模様、なかなか農作業ができません。それでも晴れ間を狙ってショウガ、トマト、ナス、キュウリ、大豆、大和芋、カボチャ、オクラ、サツマイモなどの種苗の植え付けを順次、進めていたところ、一時、治りかけていた腰痛が再び発症、農作業をさらに遅らすこととなりました。

 このためニンニクの畑は、茫々と雑草が生い茂り、収穫しようにも草取りから始めなければなりません。結果、2日掛かりで大雑把ながら草取りを行った後、炎天の下、やはり2日間かけてニンニクを収穫しました。今年の出来具合はまずまずですが、収穫時期が遅れたため玉割れが起き、商品価値は大分、落ち込むことでしょう。一方、ジャガイモも葉が枯れて収穫時期を迎え、植えた「インカのひとみ」、「インカのめざめ」、「北アカリ」の収穫と販売も始めました。ゴムバンドで腰を締め付け、腰痛を堪えながらの収穫作業でした。

 

 そんな訳で、フクシマのように後から後から問題がやってきて、身体も大分、疲れ気味。でも、そうは言ってはおれません。田圃の水草も畑の雑草も、一雨降るごとに勢いを増して成長、おまけに隣の空き地の雑草は伸び放題という、あっちもこっちも雑草に覆われてしまっているのです。このため空模様を眺めながら、腰の痛みと相談しながら、草刈り機で除草、草取り鎌で草取り、素手で直接、草の根を引っ張りながらの草抜き・草むしりの日々が今日も明日も、そして明日以降も続いているのです。

「ブッツ、ビリッ、ビリビリ、バリッバリッ、ズズッズズッ……」

雑草が大地から離れるときの音です。かなり大きな音です。ワイシャツのボタンが千切れるような音がします。

「イヤダァー」

 幼児が泣き叫ぶような声にも聞えます。草たちが大地から離れるのを嫌がっているようです。でも構わず、

「エイッ、ヤー」

 雑草を両手で持って、無理やり大地から抜き抜きます。そうして地上に現れた草の根の長さは、なんと! 30センチ近いものもありました。なかなかしぶとい奴です。家庭の庭草のような、上品な代物ではありません。

「草取りがなければ、どんなに楽だろう」、「一日も早く草取りを終わらせたい」という思いの一念で、ひたすら畑に這いつくばり雑草を抜き取っていきます。おそらく農作業のうちの3割は「草刈り・草取り・草むしり」の労働が強いられているといっても過言ではないでしょう。まして有機栽培・無農薬栽培のためには、除草剤など薬品に頼る訳にはいきませんので、その分、草取りの労力は増すばか りです。

カボチャ畑はほとんど雑草に覆われてしまった

 幸い6月から7月にかけて「ヤスコさん」と「ユウコさん」という2人の女性が東京からやってきて、ほぼ終日、草取りなど農作業を手伝ってくれました。彼女たちはかつてトライアスロン(水泳、自転車、マラソンの3種目を連続して行う競技)というスポーツで共に汗を流した仲間ですが、さすがアスリート(スポーツ競技者)だけあって炎天下でもへばることなく沢山の作業をこなしてくれました。

 でも、彼女たちが帰ったあとも、やはり私は「草刈り、草取り、草むしり」を続けています。ここ極楽寺は6月末から夏日が続いており、その夏の炎天の下、全身から湧き出し滴り落ちる汗水を拭いながら、雑草の根っこを抜き取ります。草を強く抜くたびに、ズーンと腰部に痛みが響きます。今では梅雨も明けて酷暑の日々が続いており、暑さのせいで頭の中は茫洋として、気力も失せがちになっています。

 すべては、私の手遅れが災いした結果です。もっと早く草取りに励んでいれば、こんなことはなかったのにと、悔みます。山水やモグラ、梅雨など自然の仕業だけではなく、私の怠慢のつけが回ってきた人災のようなものです。

「オーッ、もう、だめだ」

 トライアスロンの42.195㎞のマラソンで体験したときと同じように、私は畑の真ん中で呆然と立ちすくんでしまいました。脱水症状の果て、熱中症にかかったのかも知れません。なんだか身体の芯がとろけるような、まるでメルトダウン症候群のごとき状況です。そして私は口元でブツブツ…、呪文なのか? はたまた念仏なのか? 呟くのでした。

「草刈り・草取り・草むしり~泣きの涙のピーマン、ちょいと不器量なジャガイモ」

 

花開いて風雨多し 2011年 卯月

           御堂を覆い隠す枝垂れ桜
           御堂を覆い隠す枝垂れ桜

 

 

君ニ勸ム 金ノ屈卮

 

滿酌 辭スルベカラズ

 

花發イテ 風雨多シ

 

人生 別離ニ足ル

 

                            

 

 唐の時代、大中年間(世紀八百年代中期)の干 武陵(う ぶりょう)の五言絶句です。詩の意味は、「この黄金色の盃を受けて欲しい 並々と酒を注ぐけれど みんな飲み干して欲しい 花が咲いても雨風の吹き荒れることがあるし 人には別れの定めもある だから、せめて相逢えたこの時こそ 大いに飲んで歓を尽くそうではないか」といった趣旨でしょうか。

この詩を後に日本の作家、井伏鱒二は次のように詠いました。

「このさかずきを受けてくれ どうぞ並々、つがせておくれ 花に嵐のたとえもあるぞ さよならだけが人生だ」

 この中国と日本の詩歌が好きで、私は若い頃から何度となく詠んでいました。花が咲き、また散る自然の成り行きと、時にして嵐にも遭遇して永久に咲き続けることができない定めは、人の世の別れのはかなさと同じだけれども、それを悲しみ嘆くのではなく、その定めを容認し生きていこうとする意思を感じ取ることができます。詩の中に世の常なきことを一身で受け止めようとする凛々しい気合があるように思われます。

 今年も花が咲き、散りました。花は美しいもの、愛でるものですが、同時に花は風に吹かれ雨に打たれて散っていきます。美しきものが散り去る寂しさを覚えつつも、人の世の常なき定めもまた、受け入れなければなりません。しかし、花はまた来年、咲くのですから。

 

 さて今回は、私が住む極楽寺界隈の季節に相応しい“桜花”の話をさせて戴きます。

風が冷たい3月中旬、時折、薮の中で鶯がさえずり始める頃、ここ極楽寺の里山では真っ白な花弁を風に揺らしながら辛夷(こぶし)の花が、あちこちで咲き始めます。辛夷は、私の書室の窓からでも観ることができ、桜が咲くまでのしばらく間、私の目を楽しませてくれるのです。冬の姿のままの枯れ野の間から純白の花を窓越しに観て、再び春が巡ってきたことを実感します。

 

 その辛夷の花が咲き誇る頃、私が最も好きで毎年、訪ねる桜の里があります。東金市松之郷という山里にある同夢山・願成就寺という顕本法華宗(日蓮宗の一派)のお寺です。山門を潜ると、古びた小さな本堂を覆い隠すかのように狭い境内一杯に枝垂れ桜が咲き誇り、その景色は実に美しく、まるで別世界にいるような思いになります。

 松之郷という地は自宅から8Kmほど離れていますが、私が最初に米作りを始めた処です。この地で代々、農業を営む土肥さんからご指導をいただくと共に、ふーみん農園が用いる有機無農薬の稲苗はすべて土肥農園から買い求めています。今年も土肥さんの稲苗ハウスに立ち寄った際に願成就寺へ足を向けたのですが、生憎、本堂が改築中だったり、枝垂れ桜もまだ咲き始めたばかりで、かつての美しい景色を観ることはできませんでした。

 

 枝垂れ桜が満開になる頃になると次に、里山のあちこちで染井吉野が開花し始め、それもやがて散り行く頃、自宅前の道を挟んで一本の山桜が真っ白な花を咲かせます。この山桜も私の部屋の窓越しからよく見えて、やがて満開となり風に吹かれて散り始めるまでの十日間余り、眺めることができます。そして同じく、農園の畑の傍らに咲く一本の山桜も散り始めました。その桜の花びらが風に舞って農園の小屋や畑に散り落ちる今日この頃、いよいよ春野菜作りが始まります。畑には菜花も鮮やかに咲き、春本番の季節が到来しました。

 最後に愚作を一句、ご披露して、今日の日誌を書き終えます。

 

地神をば 散りて鎮めよ 桜花